NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「正義の主張は犯罪と心得べし」

『ずさん極まりない環境保護ランキングの裏側』(FPN
 → http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=2885

 環境保護団体であるグリーンピースは、定期的に環境保護ランキングである「「The Greener Electronics Guide」を発表しています。

http://it-ura.seesaa.net/article/69745568.html

このランキングの最新版が先日発表されましたが、その内容のいい加減さに思わず呆れてしまいました。


この団体は攻撃的過ぎる。

そもそもぼくは、徒党を組んで正義を主張する環境保護団体や平和運動家、宗教団体が好きではない。
環境保護団体は人間の環境を犯し、平和運動家達は紛争を起こし、宗教団体は軋轢を生む。



山本夏彦の正義論。(『何用あって月世界へ』

  • 理解をさまたげるものの一つに、正義がある。良いことをしている自覚のある人は、他人もすこしは手伝ってくれてもいいと思いがちである。だから、手伝えないと言われるとむっとする。むっとしたら、もうあとの言葉はあ耳にはいらない。
  • 私は衣食に窮したら、何を売っても許されると思うものである。女なら淫売しても許される。ただ、正義と良心だけは売物にしてはいけないと思うのである。
  • 善良というものは、たまらぬものだ。危険なものだ。殺せといえば、殺すものだ。
  • 俗に金のためなら何でもする、犬のまねしてワンと吠えよ命じられればワンと吠えると言うが、これはそれほど人は金を欲しがるというたとえ話で、いかにも人は金を欲するがそれ以上に正義を欲する。
  • 汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす。

そして、福田恆存はかく語りき。

 自分だけの正義というものはなく、正義はつねに主張のうちにある。相手のため、他人のためと言ったこところで、どうしても人を強制することになる。強制それ自体が悪であるばかりではない。どんな正義もその半面には不正と必然悪をともなってをり、そこには人を益するものがあると同時に人を害するものがあるのだ。
 他人にたいする寛容というのは現代的な美徳であるが、昔は独りを慎む礼儀というものがあって、それは主張や表現を事とする文章の世界をも支配していた。たとへばエロティックな事柄を口にする場合、「デカメロン」でも「アラビアン・ナイト」でも、ユーモアやレトリックなしではすまされなかったのである。
 現代でも、そしてもっと低級な春本や猥談においてさえ、やはりそれなりに低級な笑いを、この場合は礼儀とまでは言わぬごまかしの煙幕に用いている。望むらくは、今日の正義の主張者が、正義論もまた猥談のごとく人前で大声に語りにくき恥ずべきものと心得られんことを。

 民主主義政治の原理は、自分が独裁者になりたくないという心理に基づいているのではなく、他人を独裁者にしたくないという心理に基づいているのである。一口に言えば、その根本には他人に対する軽蔑と不信と警戒心とがある。
 そうと気づいてもらえば、「正義の主張は犯罪と心得べし」という私の忠告は極く素直に受け入れられるだろう。愛の陰には色情があり、正義の陰には利己心がある。反省の篩(ふるい)にかければ、愛や正義の名に値するものはめったにないことになる。それがどういうわけか、今日の日本では、民主主義だけが篩(ふるい)の目を逃れ、ほとんど唯一の禁忌(タブー)にまで昇格してしまっている。敵も味方もそれを旗印にする。民主主義の名の下に暴力を犯し、あるいは暴力を犯してそれを肯定するために民主主義を口実にする。そうかと思うと、暴力は民主主義ではない、それに反するものだと言い、民主主義をもってそれを説伏(しゃくふく)しようとする。民主主義とはそれほど便利なものか。

―─ 福田恆存(『日本への遺言』)