『マトリョーナの家』
もう二十年も昔。
英語とフランス語に埋もれ、日本語に飢えていた食うや食わずのモントリオール時代。
日本語なら何でも、ってことで当時アルバイト先で貸して頂いたソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』(おそらく新潮文庫版)。
それに集録されていた『マトリョーナの家』が忘れられない。当時は書き写したほど。
ロシア文学とは無縁だったし、未だに手を出したくは無い分野であるけれど、何しろ活字に飢えていた。
その後文庫本の『イワン・デニーソヴィチの一日』からは抜け落ちたようで読むことが出来なかった。
二十年来、頭の片隅に残ってたのがようやく、電子書籍として見つかった。
http://ebookstore.sony.jp/item/BT000012342500100101/
改めて書き写すのである。
当時書き写したのは、多分、このくだり。
たしかに、そのとおりだった!──どこの農家にも豚はいる! が、マトリョーナの家にはいなかった。この世で食べることしか知らない豚──それを飼うこと以上に楽な仕事があろうか! 日に三度、食べものを煮てやり、豚のために生き──あげくのはてに屠殺して、脂身(サーロ)を自分のものにする。
だがマトリョーナは、自分のものにしなかった・・・
家財を揃えようともしなかった・・・品物を買い、そのあとで、自分の生命よりもそれを大事にするために、あくせくするようなことはなかったのだ。
きれいな服をほしがろうともしなかった。醜いものや悪しきものを美しく飾りたてる服を。
自分の夫にすら理解されず、棄てられたひと。六人の子供をなくしながら、おおらかな気持ちをなくさなかったひと。妹や義理の姉たちとちがって、滑稽なほどばか正直で、他人のためにただ働きばかりしていたひと──このひとは、死に臨んでなんの貯えもなかった。薄よごれた白山羊と、びっこの猫と、ゴムの樹・・・
われわれはこのひとのすぐそばで暮らしておりながら、だれひとり理解できなったのだ。このひとこそ、一人の義人なくして村はたちゆかず、と諺にいうあの義人であることを。
都だとて同じこと。
われらの地球全体だとても。
── ソルジェニーツィン(『マトリョーナの家』)
訳者は違うかもしれないけれど。サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
あの男は、王さまからも、うぬぼれ男からも、呑み助からも、実業屋からも、けいべつされそうだ。でも、ぼくにはこっけいに見えないひとといったら、あのひときりだ。それも、あのひとが、じぶんのことでなく、ほかのひとのことを考えているからだろう。