NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

“交ぜ書き”と“ポリティカル・コレクトネス”

「えっ『子供』が差別用語ですって? ご冗談を…『子供』を『子ども』と言い換える気持ちの悪い自主規制は撤廃されるか」(Pouch)
 → http://youpouch.com/2013/09/06/134333/

わたくしたちライターや編集の仕事をしている人間は、意外と「その単語を漢字にするかひらがなにするか」ということを気にしていたりします。俗に漢字で書くことを「とじる」、ひらがなに直すことを「ひらく」といい、漢字かひらがなかの判断=とじひらき、の統一が甘い人は「ちょっと雑だよね」みたいに言われたりします。(わたしのことですが……)

で、その「とじひらき」は書き手の好みだけでなく「出版社内のルール」や「読みやすいかどうか」でも決まったりします。たとえば「読み易い」と書くより「読みやすい」と書いたほうが読みやすいかな、なんて。

そんな出版業界の日本語ルールのなかで、トップクラスに謎なもの。それが、「『子供』は差別的だから『子ども』と書くべき」というものです。記者もこのルールがある会社で記事を書いたことがあり、なんだかひっかかるなあなんて思いながら従っていました。が、ここへきて文部科学省が内部文書を「子供」表記に統一するなど、この変な自主規制を撤廃する方向に向かっているということです。これはいったい、どういうことなのでしょう?


■ 根拠どころか実在さえあやしい「子供表記差別論」
教育関連の出版社に勤めるSさんは言います。「わたくしどもの会社で出している本では、『コドモ』の表記はもれなく『子ども』に統一されています。万一原稿に『子供』という表記があった場合、編集者あるいは校正者が必ずチェックを入れて修正します。おそらく、中規模以上の教育出版社はほとんどそうしているでしょう」

では、そこに根拠はあるのでしょうか。Sさんは言い切ります。「はっきりした根拠はありません」 ええ、じゃあどうして?

文句を言う方がいないように、そうしているのです。わたくしどもにとって何より恐ろしいのは、『あの出版者は教育的配慮に欠けている』という評判ですから」(Sさん)

ネットで軽く検索をかけてみたぐらいでは、「『子供』表記は差別的だ」という主張、あるいはそう主張する方のサイトにたどりつくことは困難なようです。しかし、「子供表記差別論」の根拠を「想像したもの」を見ることができます。いわく、

・「供」は「お供」、あるいは「供物」などと、下の者やささげものといったニュアンスがある。よってこの字を使うべきではない。
・「供」あるいは「共」は、複数の人間に対して使う蔑称である。それを連想させる字を使うべきではない。

などが根拠だと「推測される」と……。じゃあ、「誰かがそういう主張をするかもしれない」という、ひどくあいまいなことを根拠として、自主規制が行われてきたということなのでしょうか。


日本語教育の関係者が憂慮する「混ぜ書き」
文部科学省検定教科書、いわゆる「教科書」の中には、文学作品を扱いながら、原作で「子供」と表記されているにも関わらず「子ども」と書き換えたものがあるとのこと。それは原作の破壊ではないのでしょうか……。

「もちろんそれも憂慮すべきことですよね。ですが、より問題なのはこのような表記が日本語のルールを無視した『混ぜ書き』であるということです」と語るのは、教育専門書の出版社に勤めるNさん。

「日本語の基本的なルールとして、漢字の単語は漢字で書く、というものがあります。本来漢字で書くべき単語を途中から勝手にひらがなにしてしまう、という『混ぜ書き』は本来ルール違反なのです

でも、たまに見かけますよね、そういう単語。

「『たん白質』(蛋白質)や『けん責』(譴責)など、常用漢字外の漢字をひらがなに直すということが戦後ずっと行われてきました。個人的には非常に愚かしい、日本古来の文化を破壊する行為だと考えます。また『障がい』のように、当事者がいい印象をもたないと思われる漢字をひらがなに直す動きもあります。これには賛否両論があり、簡単に答えが出るものではありませんが、個人的にはいかがなものかと考えます」(Nさん)

それでは「子ども」という表記については?

「根拠どころか実在さえあやしいような考えに基づいて『混ぜ書き』を推し進め、日本語のルールを乱すことは、あってはならないと考えます。

「『子供』と書いてあるのを見て気分を害す子供は存在しません。ではいったい、誰の気分を守っているのでしょうか。

「また、『供(ども)』が差別的だと言うのであれば、漢字でもひらがなでも同じことでしょう。もしそう思うのであれば『チャイルド』とでも言い換えてはいかがでしょうか。現代日本語において『子供』は単数で用いられる語ですから、『複数の人間への蔑称』という主張は端から的外れです。

「本当にこのようなことを言う教育関係者がいるのでしょうか。もしや、日本特有の『空気を読み合う』ことが悪い方向に働いた、極端なケースなのではないでしょうか」(Nさん)

文部科学省では、「子供表記が差別である」という考えを根拠なきものと判断、7月中ごろから省内の文書において「子ども」を「子供」とするように徹底しているとのことです。今後、この動きは広まっていくのでしょうか。わたしたち自身がふだん使う言葉の意味をしっかり考え、日本の言語文化をきちんと守っていくこと、それが何より大切なのだと今回の件が教えてくれているようにも思われます。

「『子供』より『子ども』が正しい!?差別用語狩りより、美しい日本語を残していくことに知恵を絞るべき」(川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」 )
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31602


新聞を読んでも、本を読んでも雑誌を見ても、気になって仕方がない。
「『子供』と書いてあるのを見て気分を害す子供は存在しません。」
もう大人なのだから、美しくない“交ぜ書き”表記は小学校内だけにしておくれ。


「大学生ら致される」
一体全体、何を致されたのか!?


言葉遣いが差別に当るとひりひりするのは尽くしていない人です。本当に尽くしてる人はそんなことは気にしません。

── 曽野綾子(NHK『曽野綾子が語る「聖地巡礼」』) 

 言葉の快、不快は、一語一語の持つ意味や定義のうちにはない、それを使う人の心にある。邪心が無ければ、そして、それを邪推する事なく聴く事が出来さえすれば、どんな「不快用語」も不快感を伴わぬであろう。なぜ人々は「不快用語」一掃を叫ぶ人々の邪心に、そして彼等の用いる言葉に不快感を覚えぬのか、そういう語学感覚の持主は一生「不快用語」に付きまとわれるであろう。そればかりではない、所謂(いわゆる)「不快用語」は日本語ばかりでなく、あらゆる国の言語にとって、堆肥の如く言葉の地味を豊にする不可欠のものである。

── 福田恆存『日本への遺言』


私の国語教室 (文春文庫)

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翁にも曰く、

「私達は、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。それ以外の何ものでもない。」

── 山本夏彦『完本 文語文』

完本・文語文 (文春文庫)

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