NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

『特攻隊に捧ぐ』

終戦の日


GHQの検閲により発禁・削除され、十数年前に発見された坂口安吾のエッセイがある。
『特攻隊に捧ぐ』(新潮文庫『堕落論』収録)である。


平成12年頃だったか、当時のエッセイ発見の新聞には、安吾らしくない云々との記事があったが、記者の見識を疑う。
おそらく、『堕落論』すら読んだこともない記者の頭の中では『堕落論』→『堕落』→『反体制』→『反戦』という短絡回路が出来上がっていたのだろう。
安吾はそんな単純じゃあないのだよ。


これぞ安吾である。


以下、抜粋。

 数百万の血をささげたこの戦争に、我々の心を真に高めてくれるような本当の美談が少いということは、なんとしても切ないことだ。それは一に軍部の指導方針が、その根本に於(おい)て、たとえば「お母さん」と叫んで死ぬ兵隊に、是が非でも「天皇陛下万歳」と叫ばせようというような非人間的なものであるから、真に人間の魂に訴える美しい話が乏しいのは仕方がないことであろう。
 けれども敗戦のあげくが、軍の積悪があばかれるのは当然として、戦争にからまる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。

 たとえば戦争中は勇躍護国の花と散った特攻隊員が、敗戦後は専(もっぱ)ら「死にたくない」特攻隊員で、近頃では殉国の特攻隊員など一向にはやらなくなってしまったが、こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、自己自らを愚弄することにほかならない。もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。

 私は文学者であり、生れついての懐疑家であり、人間を人性を死に至るまで疑いつづける者であるが、然し、特攻隊員の心情だけは疑らぬ方がいいと思っている。なぜなら、疑ったところで、タカが知れており、分りきっているからだ。要するに、死にたくない本能との格闘、それだけのことだ。疑るな。そッとしておけ。そして、卑怯だの女々しいだの、又はあべこべに人間的であったなどと言うなかれ。

 彼等は自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。否、その大部分が途中に射ち落とされてしまったであろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼等全部の名誉ある姿と見てやりたい。母も思ったであろう。恋人のまぼろしも見たであろう。自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中に彼等の二十何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。彼等は基地では酒を飲み、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかも知れぬ。やむを得ぬ。死へ向かって歩むのだもの、聖人ならぬ二十前後の若者が、酒を飲まずにいられようか。せめても女と時のまの火を遊ばずにいられようか。ゴロツキで、バクチ打ちで、死を恐れ、生に恋々とし、世の誰よりも恋々とし、けれども彼等は愛国の詩人であった。いのちを人にささげる者を詩人という。唄う必要はないのである。詩人純粋なりといえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。そんな化け物はあり得ない。その迷う姿をあばいて何になるのさ何かの役に立つのかね?

 我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の欺瞞とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。

 人間が戦争を呪うのは当然だ。呪わぬ者は人間ではない。否応なく、いのちを強要される。私は無償の行為と云(い)ったが、それが至高の人の姿であるにしても多くの人はむしろ平凡を愛しており、小さな家庭の小さな平和を愛しているのだ。かかる人々を強要して体当りをさせる。暴力の極であり、私とて、最大の怒りをもってこれを呪うものである。そして恐らく大部分の兵隊が戦争を呪ったにきまっている。

 強要せられたる結果とは云え、凡人もまたかかる崇高な偉業を成就しうるということは大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於(お)いて、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を世界を明るくする。ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ。

 私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。その人間の懊悩苦悶(おうのうくもん)とかくて国のため人のためにささげられたいのちに対して。先ごろ浅草の本願寺だかで浮浪者の救護に挺身し、浮浪者の敬慕を一身にあつめて救護所の所長におされていた学生が発疹チフスのために殉職したという話をきいた。
 私のごとく卑小な大人が蛇足する言葉は不要であろう。私の卑小さにも拘(かかわ)らず偉大なる魂は実在する。私はそれを信じうるだけで幸せだと思う。

 青年諸君よ、この戦争は馬鹿げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。
 要求せられた「殉国の情熱」を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出すことが不可能であろうか。それを思う私が間違っているのだろうか。

堕落論 (新潮文庫)

堕落論 (新潮文庫)


『2006年09月17日(Sun) 戦艦大和ノ最期』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20060917



 日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。これは、世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。ス夕-リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナチックだったろうか。断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかっ た。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。
 戦後にフランスの大臣としてはじめて日本を訪れたとき、私はそのことをとくに陛下に申し上げておいた。
 フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を 抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつもいってやる。「母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?」と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである。

── アンドレ・ マルロー(『特別攻撃隊の英霊に捧げる』



比叡山に幻の特攻訓練基地 大戦末期、旧海軍が建設」(産経新聞)
 → http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2013/08/15ouka/

 最澄が開いた延暦寺などがあり、信仰の地として知られる大津市比叡山(約848m)の中腹には太平洋戦争末期、特攻機「桜花」の訓練基地建設が進められていた。終戦直後に破壊された幻の基地。旧海軍下士官として工事に加わった大津市の三田伊弘さん(92)は「搭乗員は気の毒だと思っていた。平和な世の中が一番」と語った。

  参詣客が絶えない比叡山鉄道「ケーブル延暦寺駅」の近く。基地があったとされる周囲はうっそうとした森林の間を道路が通るだけで、当時の面影はない。「米国の力はきつかった。戦局が変わるとは思わなかったが、命令だから仕方がなかった」と語る三田さん。当時は滋賀海軍航空隊(滋賀空)で上等整備兵曹だった。

 桜花は、機首に大型爆弾を積み、後部には推進用のロケットやジェットエンジンを搭載。燃料が切れた後は滑空し、操縦士の役割は敵の艦船などへ機体を誘導すること。最初から特攻のみを目的に設計された文字通りの"人間爆弾"だった。

 大津市歴史博物館によると、旧海軍は当初、大型攻撃機に桜花をつるして敵に近づいて空中で切り離す計画だったが、戦況悪化で攻撃機が不足し断念。沖縄戦に敗れ、本土決戦の機運が高まる中、各地に桜花の発射基地を建設し、上陸する米軍を迎え撃つ作戦を立てた。

 比叡山で基地建設が始まったのは終戦約3カ月前の1945年5月ごろ。滋賀空はケーブルカーを接収し、機密保持を理由に比叡山への参詣を禁止。三田さんら約100人が作業を始めたのは6月上旬だった。

 「重機なんかなく、重労働だった」。三田さんらは麓の中学校に泊まり、毎朝ケーブルカーで山腹へ。暗くなるまで、つるはしやスコップで山を切り開き、土砂を運搬。木のくいを打ち込んで平地を造成した。

 琵琶湖を望む山腹には、発射用の全長約60mのレールや機体を方向転換させる回転台などが完成し、竣工式は8月15日の予定だった。結果として、訓練機も桜花も配備されることはなかった。

 基地は米軍に破壊されたとみられ、戦後に防衛庁戦史室(当時)が編さんした「戦史叢書」には「比叡山の操縦訓練場」との記載が残る。