NAKAMOTO PERSONAL

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読書時間「ゼロ」 豊かな言葉と教養を失う

「【主張】読書時間『ゼロ』 豊かな言葉と教養を失う」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/180304/clm1803040002-n1.html

 1日の読書時間が「ゼロ」の大学生は、5割超に上る。最高学府の名に値するのだろうか。

 知識と教養を高めるべき学生時代に多くの本を読まず、いつ読むのか。国語力低下に拍車をかける、危機的状況だと認識すべきだろう。

 学生の生活実態を調べた全国大学生協連の調査で、1日の読書時間は平均23・6分だった。「0分」と回答した学生は53%と初めて半数を超えた。これは、電子書籍も「読書」に含めての数字である。

 アルバイトをしている学生に「0分」が多い。本を読む暇もないほど忙しいというのか。今の学生ばかり叱っても仕方がない。読書習慣は幼少期から培われるからだ。国民全体の懸念である。

 過去の調査との比較でも、若者の読書離れは進んでいる。

 文化庁国語に関する世論調査(平成25年度)では、16歳以上で1カ月に本を一冊も「読まない」との回答が47・5%に上った。その約10年前の14年度調査と比べ、「読まない」割合は各年代で増えた。平均で10ポイント上昇した。

 読書は知識を得るだけでなく、豊かな言葉や表現を学べる。感性が育まれ、想像力や空想力が養われる。国語世論調査でも、多くの人が指摘したことである。

 最も読書すべき時期は「10代」との答えが多かった。多感なときに貴重な読書体験を得られないのは、人生の損失だろう。

 近年、国語力が中学生レベルにとどまっている学生が増えているとの調査もある。「憂える」の意味を「喜ぶ」と思い込むなど、語彙不足は深刻だという。

 東大などトップクラスの大学でも、時代を超えて読み継がれる古典をあまり読んだことがない学生が多くなっている。教科書以外で読むものは漫画、という学生も少なくない。

 携帯電話やスマートフォンは手放さない。短文発信や絵文字の扱いには慣れていても、若者たちの読解力不足は確かだ。

 目を引くキーワードだけ拾い読みし、都合よく理解する。細かなニュアンスが理解できず、コミュニケーションにも支障が出る。そうした傾向は、読書離れと無縁ではなかろう。

 読書を通して培われる豊かな言葉や知識は、論理的思考力の源である。それなしにはAI(人工知能)も使いこなせまい。


新渡戸先生が言うには、
読書には或る意味に於いて便法なく、一度は艱難(かんなん)して苦しまなければならぬ。」と。

 故に私は一言最後にこういっておきたい。先ず読書には或る意味に於いて便法なく、一度は艱難(かんなん)して苦しまなければならぬ。その代わりに艱難したならば、後は自由自在に、日本の本ならば縦に読まずに横に読み、西洋の本ならば横に読まずに縦に読むことが出来るようになる。それには練習と見識、見識というのは自分は何を望むかということ、何のために本を読むのであるか、今日は暑いし、昼寝をしようと思うが、眠りを助けるために本を読むのだ。演説をするのに何か面白い例を引くために読むのである。今度は自分の心に一つの疑いがあって、それを解決するために読むのであるというように目的に依って違う、随って見識によって違うのである。だから目的と見識が備わった以上は先ず第一に古典を読んで、それもみな読めということではない、バイブルならバイブル、プルタークならプルターク、シエイクスピヤならシエイクスピヤ、何か一つを熟読する。そうして後の方は参考にする。外の書物は自分の尊敬する人の教を補うために使うだけであって、そうなって来ると大きな心棒だけは決まる。それに外のものは皆付けて行くのであって、だから物を言っても、沢山の本を読んでいるから脱線するだろう、しかし心棒が動かぬ以上は皆元に戻ってくる。多読病に掛った奴は話をしても脱線脱線で元に戻ってこない。何を話しているか訳が分からなくなってくる。そうなると話ばかりでなく、人間そのものまで無頼漢になってしまう。何をしても特徴がなくなる。何をやっても駄目になる。この特徴は必要なことで、こういう時になって、初めて読書が人間を拵えることになる。読書にして人間を拵えることに貢献しないならば、これはただ漫談家を作るに過ぎまい。

── 新渡戸稲造(『読書と人生』)

新渡戸稲造論集 (岩波文庫)

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