NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

敬老の日

 実は、どんなに用意しようと、私たちはやがて目がかすみ、耳が遠くなり、すべての機能が悪くなる。本当の老年の到来を迎えた時、私はたった一つの態度しか思いうかべることができない。それは汚辱にまみれても生きよ、ということである。
 「風になぶられるしなやかな髪、みずみずしい唇」の少女の日も、それは一つの状態であった。目も耳もダメになり、垂れ流しになりながら苦痛にさいなまれることも、しかし、やはり一つの人間の状態なのである。願わしい状態ではないが、心がけの悪さゆえにそうなるのではないのだから、どうして遠慮することがあろう。
 人間らしい尊敬も、能力もすべて失っても人間は生きればいいのである。尊敬や能力のない人間が生きていけないというのなら、私たちの多くは、すでに青春時代から殺されねばならない。

── 曽野綾子(『戒老録』)


今日は敬老の日
「【主張】敬老の日 尊厳を忘れぬ言葉遣いで」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170918/clm1709180001-n1.html

 「おじいちゃん、どっちに行きたいの」「名前呼ばれるまでちゃんと待てる?」「やればできるじゃないの」-。街角や電車内、病院などで、お年寄りに対するこのような言葉遣いを耳にしたことはないだろうか。

 家族や旧知など気心の通じた仲なら親近感があって好ましい場合もあろうが、相手構わず高齢者を目下か子供のように扱う物言いは、悪意がなくても、いや、たとえ好意からであったとしても、高齢者の自尊心を傷つけることがある。

 高齢者と接する機会の多い病院や介護施設などでは、とくに注意が必要だろう。施設に入所した人が、自らの年齢の半分にも満たないような若い職員から幼児言葉で話しかけられたことで心を閉ざし、長らく施設になじめなかったといった例も見聞きする。

 日本看護倫理学会は看護職向けのガイドラインで、高齢者の尊厳を守り、高めるための行動として「理由なしに高齢者をちゃんづけや愛称で呼ばず、その人の名前を呼ぶ」ことなどを提唱している。距離感を縮める目的でのくだけた言葉遣いも、度を越せばなれなれしく不快な印象を与えよう。

 高齢者は一般的に社会的弱者と位置づけられることが多い。確かに現役世代に比べ身体能力や所得などで不利な立場にあるのは否めない。その意味では高齢者を弱者としていたわり、保護していく社会の仕組みは重要である。

 ただ忘れたくないのは、高齢者を大切にするのは彼らが弱者だからではなく、豊かな経験と知恵を培ってきた人生の先輩だからであるとの視点だ。高齢者の中には、これまで家族を支え、日本の復興と成長にも貢献してきたと自負する人が少なくない。

 そこに思いを致せば、ぞんざいな言葉遣いなどできようはずもない。相手や場面に応じて過不足なく敬語を使いこなすのを難しいと感じる人も多かろうが、言葉の端々まで敬意と思いやりを行き届かせれば、おのずと相手の心に響く会話ができるに違いない。

 「うやまう」と訓じる「敬」は左部分(音はキョク)が「引き締める」意を表すことから、「はっとかしこまってからだを引き締めること」(漢字源)だという。

 身を引き締め、折り目正しい言葉遣いで高齢者に接する大切さを改めて思ってみる。そんな「敬老の日」にしたいものである。