NAKAMOTO PERSONAL

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東京新聞のやり方を「桐生悠々なら何と評するでしょうか」

「【産経抄東京新聞のやり方を『桐生悠々なら何と評するでしょうか』 9月12日」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170912/clm1709120003-n1.html

 日曜の朝、起き抜けに東京新聞を開いたら、長文の社説の見出しが目に留まった。「桐生悠々と…」。日本人で初めて100メートルの「10秒の壁」を突破した桐生祥秀(よしひで)選手のことかと、寝ぼけ頭は勘違いをしてしまった。

 見出しは「防空演習」と続く。桐生悠々は、明治から昭和初期にかけて活躍した反骨のジャーナリストである。東京新聞を発行する中日新聞の前身の一つ、新愛知新聞でも健筆を振るった。信濃毎日新聞主筆だった昭和8年、軍部の怒りを買って新聞界を追われる。そのきっかけとなったのが、「関東防空大演習を嗤(わら)う」と題した評論である。

 当時関東の上空では、陸軍の演習が行われ、多数の航空機が参加していた。悠々によれば、実際には役に立たない演習である。すべての敵機を撃ち落とすのは不可能だからだ。攻撃を免れた敵機が落とす爆弾が、木造家屋の多い東京を「一挙に焼土たらしめる」。悠々の指摘は、12年後の東京大空襲で現実のものとなる。

 東京新聞はここで、北朝鮮の弾道ミサイルに備えたJアラートと住民の避難訓練を持ち出して、読者に問いかける。防空演習を嗤った「桐生悠々なら何と評するでしょうか」。要するに、軍事的な脅威をあおるより、外交努力を尽くすことが先決というのだ。

 もっとも、評論の内容を知る人は、違和感を覚えるはずだ。敵機の来襲を探知して、日本の領土に達する前に迎え撃て。これが悠々の主張である。現在の状況にあてはめれば、ミサイル防衛の強化に他ならない。

 東京新聞の社説は、防衛力を高めよ、との評論の趣旨を無視している。都合のいいところだけを抜き出して、政権批判に結びつける。そんなやり方を「桐生悠々なら何と評するでしょうか」。


桐生悠々に曰く、
「水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。」

 だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。この危険以前に於て、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落すか、またはこれを撃退しなければならない。戦時通信の、そして無電の、しかく発達したる今日、敵機の襲来は、早くも我軍の探知し得るところだろう。これを探知し得れば、その機を逸せず、我機は途中に、或は日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵を我領土の上空に出現せしめてはならない。与えられた敵国の機の航路は、既に定まっている。従ってこれに対する防禦も、また既に定められていなければならない。この場合、たとい幾つかの航路があるにしても、その航路も略予定されているから、これに対して水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。

── 桐生悠々(『関東防空大演習を嗤う』)


「【社説】週のはじめに考える 桐生悠々と防空演習」(東京新聞
 → http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017091002000138.html

 北朝鮮が弾道ミサイル発射を繰り返し、国内では避難訓練も行われています。かつて関東上空での防空演習を嗤(わら)った桐生悠々なら何と評するでしょうか。
 きょう九月十日は明治後期から昭和初期にかけて健筆を振るった反骨のジャーナリスト、桐生悠々の命日です。太平洋戦争の開戦直前、一九四一(昭和十六)年に亡くなり、七十六年がたちます。
 本紙を発行する中日新聞社の前身の一つである新愛知新聞や、長野県の信濃毎日新聞などで編集、論説の総責任者である主筆を務めた、われわれの大先輩です。


◆非現実の想定「嗤う」
 新愛知時代には、全国に広がった米騒動の責任を新聞に押し付けようとした寺内正毅(まさたけ)内閣を厳しく批判する社説の筆を執り、総辞職に追い込んだ気骨の新聞人です。
 その筆鋒(ひっぽう)は軍部にも向けられます。信毎時代の三三(同八)年八月十一日付の評論「関東防空大演習を嗤う」です。
 掲載の前々日から行われていた陸軍の防空演習は、敵機を東京上空で迎え撃つことを想定していました。悠々は、すべてを撃ち落とすことはできず、攻撃を免れた敵機が爆弾を投下し、木造家屋が多い東京を「一挙に焦土たらしめるだろう」と指摘します。
 「嗤う」との表現が刺激したのか、軍部の怒りや在郷軍人会の新聞不買運動を招き、悠々は信毎を追われますが、悠々の見立ての正しさは、その後、東京をはじめとする主要都市が焦土化した太平洋戦争の惨禍を見れば明らかです。
 悠々の評論の核心は、非現実的な想定は無意味なばかりか、有害ですらある、という点にあるのではないでしょうか。
 その観点から、国内の各所で行われつつある、北朝鮮の弾道ミサイル発射に備えた住民の避難訓練を見るとどうなるのか。


◆ミサイルは暴挙だが
 まず大前提は、北朝鮮が繰り返すミサイル発射や核実験は、日朝平壌宣言国連安保理決議などに違反し、アジア・太平洋地域の安全保障上、重大な脅威となる許し難い暴挙だということです。
 今、国連を主な舞台にして、北朝鮮に自制を促すさまざまな話し合いが続いています。日本を含む関係各国が「対話と圧力」を駆使して外交努力を惜しんではなりません。軍事的な対応は憎悪が憎悪を呼び、問題の根本的な解決にならないからです。
 その上で、北朝鮮のミサイル発射にどう備えるべきなのか。
 政府は日本に飛来する可能性があると判断すれば、全国瞬時警報システム(Jアラート)を使って避難を呼び掛けます。八月二十九日早朝の場合、発射から四分後に北海道から関東信越までの十二道県に警報を出しました。
 とはいえ、日本の領域内に着弾する場合、発射から数分しかありません。政府は、屋外にいる場合は近くの頑丈な建物や地下への避難を呼び掛けていますが、そうしたものが身近にない地方の都市や町村では、短時間では避難のしようがないのが現実です。
 八月の発射でも「どこに逃げるか、どのように身を隠せばいいか。どうしていいか分からない」との声が多く出ています。
 住民の避難訓練も同様です。ミサイル発射を想定した国と自治体による合同の避難訓練が今年三月以降、すでに全国の十四カ所で行われていますが、専門家からは訓練の想定や有効性を疑問視する声が出ています。
 北朝鮮は、在日米軍基地を攻撃目標にしていることを公言していますし、稼働中であるか否かを問わず、原発にミサイルが着弾すれば、放射線被害は甚大です。
 しかし、政府は米軍基地や原発、標的となる可能性の高い大都市へのミサイル着弾を想定した住民の避難訓練を行っているわけではありません。有効な避難場所とされる地下シェルターも、ほとんど整備されていないのが現状です。
 訓練の想定が現実から遊離するなら、悠々は防空大演習と同様、論難するのではないでしょうか。


原発稼働なぜ止めぬ
 戦力不保持の憲法九条改正を政治目標に掲げる安倍晋三首相の政権です。軍備増強と改憲の世論を盛り上げるために、北朝鮮の脅威をことさらあおるようなことがあっては、断じてなりません。
 国民の命と暮らしを守るのは政府の役目です。軍事的な脅威をあおるよりも、ミサイル発射や核実験をやめさせるよう外交努力を尽くすのが先決のはずです。そもそもミサイルが現実の脅威なら、なぜ原発を直ちに停止し、原発ゼロに政策転換しないのでしょう。
 万が一の事態に備える心構えは必要だとしても、政府の言い分をうのみにせず、自ら考えて行動しなければならない。悠々の残した数々の言説は、今を生きる私たちに呼び掛けているようです。