NAKAMOTO PERSONAL

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「世の中全て分かっている系」

「『世の中全て分かっている系』が厄介な理由」(ITmediaビジネス)
 → http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1708/18/news015.html

 秀逸な本と出会ってしまった。『現在ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(イースト新書)がそれだ。気鋭の論者3人(北田暁大氏、栗原裕一郎氏、後藤和智氏)がタイトル通り、宮台真司氏や東浩紀氏、荻上チキ氏、古市憲寿氏、イケダハヤト氏などの言論人について徹底検証している。

 この本の中で、実に絶妙なフレーズがあった。それは「世の中全て分かっている系」という言葉である。例として、宮台真司氏や東浩紀氏が挙げられている(なお、イケダハヤト氏は「俺、スゴい系」とのこと)。

 一応説明すると、世の中全て分かっている系とは全てを分かっている“つもり”になっている人のことである。この言葉の破壊力に私は震えてしまった。私が仕掛けた「意識高い系」以上のインパクトであり、こう評価されたときの絶望感は半端ないだろう。

 この、世の中全て分かっている系だが、別に評論家や、政治家、経営者だけではなく、普通の職場にも数多くいる。そう、いかにも「俺は業界や自社のことを生き字引のように知っている」と言ってマウンティングしてくる上司や先輩だ。

 いや、これは上の世代に限らない。同僚や部下、後輩でも、ちょっと賢いが故に「こんなことをやっていても無駄だ」と言って、見下してくるタイプもそうだ。

 意識高い系はまだ、努力して成長したいという可愛げがあるのでまだ良い。ただ、世の中全て分かっている系は達観しており、相手のことなど関係なく、自分の得意分野と、生きてきた時代をもとに全てを語ろうとするから非常に厄介なのだ。


自分の得意分野を武器に、全てを語ろうとする

 世の中全て分かっている系が罪深いのは、前述したように「世の中のこと全て」など分かっていないということだ。そんなものは、分かるはずがない。哲学者、ソクラテスの「無知の知」という言葉を大事にしたい。

 私は仕事で著名な学者や論者、経営者などと会う機会が多いのだが、彼らは大変謙虚だ。自分が少しでも知らないことがあると「勉強になりました」と言う。超一流と一流の違いは、謙虚かどうかだと私は思っている。

 世の中全て分かっている系が厄介なのは、自分の得意分野や他人より少し深く知っている知識があり、その土俵を武器に世の中の全てを語ろうとすることだ。この「土俵力」を駆使しているのが特徴であり、本人は本当に世の中の全てを分かっていると思っているので面倒臭い。

 例えばコメンテーターの張本勲氏がプロ選手選手を分析するとき、本人が活躍した時代のプロ野球選手を基準としている。今の方がスポーツは戦略的、科学的になっているように思えるのだが、これも土俵力で押し切られてしまう。

 ちなみに昔、極真会館(空手団体)の創始者である大山倍達氏による人生相談コーナーが掲載されていた雑誌があったのだが、将来の悩みにしろ、失恋にしろ、大山倍達氏は「君、極真空手をやりなさい!」と返していたという。これも土俵力を駆使した一種の世の中全て分かっている系である。

 世の中全て分かっている系の対処法は、にこやかに笑いながら具体的な質問を繰り返すに限る。実は分かっていないのではないか、苦しい説明になっていないかと本人自身が自覚するまで突っ込むしかない。

 というわけで、意識高い系も面倒くさいが、世の中全て分かっている系はもっと面倒くさい。職場にはびこるこのタイプとの向き合い方もまた、ビジネスパーソンを悩ます問題の1つである。


漱石センセに曰く。

 言う人は知らず、知る人は言わず、余慶(よけい)な不慥(ふたし)かのことを喋々*1(ちょうちょう)するほど、見苦しきことなし。いわんや毒舌をや。何事も控え目にせよ。奥床しくせよ。むやみに遠慮せよとにはあらず、一言も時としては千金の価値あり。万巻(まんがん)の書もくだらぬことばかりならば糞紙(ふんし)に等し。

── 夏目漱石(『愚見教則

*1:喋々する=しきりにしゃべる