「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役(りきえき)はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々(しもじも)の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本(もと)を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。
1901年(明治34年)2月3日 福澤諭吉 没
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「朝日新聞大丈夫か? 福沢諭吉が『アジア侵略を説く論文も多数残している』」(BLOGOS)
→ http://blogos.com/article/148335/
この朝日新聞の記事は極めてまずいのではないか。
事実誤認と恣意的解釈がはなはだしい。『福沢諭吉が日本の近代化誤らせた? 8日に名古屋で集い』(朝日新聞)
http://www.asahi.com/articles/ASHD34KGSHD3OIPE01J.htmlこの記事では、福沢諭吉について、
「アジア侵略を説く論文も多数残している。」
と断言しているが、どの論文か明記をして欲しい。私は福沢諭吉の著書、論文の相当数を読んでいるが、そのような論文は目にしたことは無い。
また、もし仮に「脱亜論」をアジア侵略を説く論文とするなら、事実誤認であるばかりか恣意的解釈がはなはだしく、圧倒的多数の学者や専門家に否定されるだろう。
この記事では、例えば、「アジア侵略を説く論文と評価している人もいる」という他者のコメントを引用する形ではなく、朝日新聞の記者による記事で断言している。
本当に、福沢諭吉について、「アジア侵略を説く論文も多数残している。」と朝日新聞社として断定するのか。
大きな問題であり、慶應義塾もこんな言われ方をして黙っているのだろうか。
なぜ、こんな断定調の危険な記事を朝日新聞は載せたのか?
ジャーナリストとしての素養が無い人物が書いたとしか思えないし、デスクは何をやっているのか?それとも社としての考えなのだろうか?