NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

『言葉の力』

「脳科学が証明、社会を動かす『言葉の力』」(PRESIDENT Online)
 → http://president.jp/articles/-/13533

 私事で恐縮であるが、『茂木健一郎の脳がときめく言葉の魔法』(かんき出版)という本を出した。言葉には、実際に人生を変える力があると、私は考えている。

 言葉が、人間の世界にどのように登場してきたかと考えると面白い。一つの有力な説は、会話は仲間どうしの絆を確認する「毛づくろい」の発展形として進化してきたというもの。お互いに毛づくろいする代わりに、会話を交わすことで、絆を確認するのだ。

 ところで、「言葉」には、「魔法」のような力があるということを、科学的な立場から説明すると、つまり言葉にはそれだけの「幻想」(イリュージョン)としての力があるということになる。

 現代の脳科学においては、幻想には歴然とした現実感が伴うと考える。たとえば、「お金」や「愛」は確かに物質的な実体がない幻想かもしれないが、その幻想を通して、私たちは一喜一憂し、社会が実際に動いていく。

 ハーバード大学の著名な研究者は、人間が自分の行動や選択を決められるという「自由意志」は、脳が作り出した一つの「幻想」であるという論文を書いた。

 マジシャンが、この世では起こりえないことが起こっているかのような「イリュージョン」を生み出すのと同じように、私たちの脳は、自分自身に「手品」を見せる。そのトリックによって、自由意志や言葉の意味が作り出され、私たちの人生は影響を受け、時には一変する。

 言葉は、脳の働きを通して、私たちが自分にかける「魔法」のようなものなのである。

 ところで、言葉を魔法としてとらえた場合、そこには大きく2つの側面があるように思う。すなわち、「白魔術」としての言葉と、「黒魔術」としての言葉である。

 黒魔術、白魔術とは、魔法の研究者の間で議論されている区別。黒魔術とは、自分の欲望を実現するために相手を利用したり、あるいは敵意を抱いた相手をおとしめるために使われる魔法であるという。一方、白魔術とは、愛を成就させたり、美しいものを生み出したり、公のためになるような目的のために使われる魔法を指す。

 興味深いことに、白魔術と黒魔術は、目的が違うだけで、本来の手段は共通であるという議論がある。つまり、同じ方法を用いても、その目的が善きものか、悪しきものかによって、効果が変わってくるというのである。

 「魔法」は、現代の科学的立場から言えば、私たちの幻想の中だけに存在するイリュージョン。その効果が、目的によって「白魔術」と「黒魔術」に分かれるということは、言葉の力を考えるうえで大変参考になる発想だと思う。

 言葉には、それを受け取る側の力を奪い、不幸にする力もある。嫉みや憤りに任せて心ないことを言ったり、心を傷つけるような言葉をあえて口にするような場合、言葉は「黒魔術」となる。

 一方、言葉には、相手を元気づけ、幸せにする力もある。愛や好意があふれる言葉を浴びせたり、傷ついている人を救うような言葉は「白魔術」と言うことができるだろう。

 言葉は、脳が脳にかける幻想という魔法。どうせイリュージョンならば、黒魔術ではなく、白魔術として言葉を使いたいと思うのは、私だけであろうか。

 言葉の持つ力をどのように使うかは、私たち一人一人次第。言葉という魔法を使う「魔術師」であるという自覚を持って、言葉の力を他人や自分を元気にする方向に使いたいものである。

茂木健一郎の脳がときめく言葉の魔法

茂木健一郎の脳がときめく言葉の魔法


賢人に曰く、、、

 言葉は手段であると同時にその目的そのものである。自分の外にある物事を約束にしたがつて意味する客観的な記号であると同時に、自分の内にある心の動きを無意識に反射する生き物なのである。一語一語がさういふ両面の働きをもつてゐる。ある人がある時に「あわてる」ではなく「狼狽する」を選んだことには、適否は別として、意味とは別の世界に、その人、その時の必要があるはずで、その限りにおいては、彼自身すら十分に自由、かつ意識的ではありえない。彼が選ぶのではなく、言葉のはうがその時の彼に近づいて来て、彼を選ぶのである。

── 福田恆存(『私の國語教室』)

私の国語教室 (文春文庫)

私の国語教室 (文春文庫)