NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

文化とは何か

『文化の日』
「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日。らしい。


では、その愛すべき「自由」とは何か、「平和」とは何か。
そのすすめるべき「文化」とは、何か。


我が思想的支柱、福田恆存に曰く、

 自由

 自由といふこと、そのことにまちがひがあるのではないか。自由とは、所詮、奴隷の思想ではないか。私はさう考える。自由によつて、ひとはけつして幸福になりえない。じゆうといふやうなものが、ひとたび人の心を領するやうになると、かれは際限もなくその道を歩みはじめる。方向は二つある。内に向かふものと、外に向かふものと。自由を内に求めれば、かれは孤独になる。それを外に求めれば、特権階級への昇格を目ざさざるをえない。だから奴隷の思想だというのだ。奴隷は孤独であるか、特権の奪取をもくろむか、つねにその二つのうち、いづれかの道を選ぶ。

『人間・この劇的なるもの』


 平和

 平和とは何であるかと問はれれば、それは辞書にある通り“Freedom from, or cessation of, war or hostilities, that condition of a nation or community in which it is not at war with another.”意味し、また“A ratification or treaty of peace between two powers previously at war.”を差すといふのが、最も常識的な答えでありませう。それは戦争の事前と事後にある戦争の欠如状態、即ち、戦争してゐないといふだけの事です。要するに、単なる事実を示す消去的な意味に過ぎず、何等かの価値を示す積極的な意味として使用し得ぬものであります。少なくとも過去においては、特殊な平和主義者以外の大部分の人にとつてさういふものだつたのです。詰り戦争さへ無ければ好いのであります。が、戦争さへなければ好いといふ事は、或る価値を生むのに都合の好い状態であつても、その事自体を価値と見なす訳には行きません。のみならず、或る幾つかの価値を生むのに都合が好くても、それは必ずしも他の価値を生むのに都合が好い状態を意味しません。例えば勇気や自己犠牲の様に戦争状態であつたはうが生むのに都合の好い価値といふものも存在します。しかし、だからといつて戦争自体を価値と見なす訳には行きますまい。尤も日本の平和思想の弱点は、平和状態であつたはうが生むのに都合の好い価値といふ事についてすら、一顧の考慮をも払はなかつた事にあります。言ふまでもなく、平和は単なる事実や手段を示す消極的な意味ではなく、それ自信直ちに価値や目的と成り得る積極的な意味として通用してしまつたからです。

『平和の理念』


 文化1

 現在、戦争をたんに利害の衝突からのみ眺める妙な先入観がありますが、そんなかんたんなものではない。負けたはうが、侵略のまゝにまかせたはうが、下手に戦ふより楽なばあひだつてあります。それをなぜ、人類は性こりもなく戦争をくりかへしてきたか。それは意識するとしないとにかゝはらず、自国の文化を守るためでありませう。自分のくせや気質を守るためでありませう。それほどに、自分の気質とかくせとかいふものは大事なものなのであります。それは私たちの、いはゞ生きかたであつて、それを変へろといはれるのは自分の生活が否定されるほどに辛いのです。
 私たちの最近の歴史は、さういふ辛い目にばかりあつてきた。文化の混乱であり、文化の喪失であります。もつと遺憾なことは、私たちが、その事実に気づいてゐないのみか、その辛さにも気づかぬほど、すつかり文化感覚を失つてしまってゐるのであります。だから、食へてはじめての文化といふやうな観念が時代を風靡してゐて、だれもそれを怪しまないのです。そして、かういふ文化概念はもつぱら知識階級の間に流行してゐます。民衆はまだしも文化をもつてゐる。自分たちの歩きぐせや気質を守つてゐます。それを捨てて、新時代についてこられぬ彼らを、知識階級は軽蔑する。が、私はさういふ知識階級を軽蔑したい。文化の混乱の結果、いちばん辛い目にあつてゐるのは民衆です。それも、彼らの間には、まだ文化感覚が生きてゐるからです。

『文化とはなにか』


 文化2

 文化といふ言葉は大体二様に用ゐられてゐる。第一は、民族や時代の生活様式を集中的に表してゐる建築、美術、工芸、音楽、文字、教育などを指す。無形文化財、室町文化がそれである。その他は第二の意味に属する。すなはち、進歩的で西洋的でハイカラで、文明開化の響きを有してゐる。しかし、両者ともに間違つている。少なくとも表面的である。では、文化とは何か。エリオットによれば、文化とは民族や時代の「生き方」なのである。
 私たちが、歴史を知らうとするとき、たとへば室町時代の人はもう存在しないから、その「生き方」を見るわけにはゆかない。そこで銀閣寺や雪舟を取上げるわけだが、それは当時の人間の「生き方」としての文化の頂点を示すものであつて、それだけが文化なのでもないし、それが文化なのでもない。また、そこに室町時代人の「生き方」が表れてをり、察せられもするといふ点では、政治も戦争もさうである。政治も戦争も文化なのである。歴史教科書の政治、経済、文化といふ分類説明法は、単なる便宜に過ぎない。

『文化破壊の文化政策


 生き方としての文化

 エリオットは「文化とは生きかたである」といつてをります。一民族、一時代には、それぞれ自分特有の生きかたがあり、その積み重ねの頂上に、いはゆる文化史的知識があるのです。私たちが学校や読書によつて知りうるのは、その部分だけです。そして、その知識が私たちに役立つとすれば、それを学ぶ私たちの側に私たち特有の文化があるときだけであります。私たちの文化によつて培(つちか)はれた教養を私たちがもつてゐいるときにのみ、知識がはじめて生きてくるのです。そのときにだけ、知識が教養のうちにとりいれられるのです。教育がはじめて教養とかかはるのです。
 文化によつて培われた教養と申しましたが、いふまでもなく、教養といふものは、文化によつてしか、いひかへれば、「生きかた」によつてしか培はれないものです。ところで、その「生きかた」とはなにを意味するか。それは、家庭のなかにおいて、友人関係において、また、村や町や国家などの共同体において、おたがひに「うまを合わせていく方法」でありませう。といつて、この方法は、なにも個人個人がめいめいに考へるものではなく、個人が生まれるまへからおこなはれてゐたものなのであります。
 が、誰もかれもが、その一般的な「生き方」を受けついで、それ以上に出ないとすれば、その共同体は澱(よど)んだ水のやうに腐つてしまふでせう。第一、それでは教養などといふものの発生する余地はありません。一つの共同体には、おたがひが「うまを合わせていく方法」があると同時に、各個人は、この代々受けつがれてきた方法と、自分自身との間に、また別に「うまを合わせていく方法」をつくりださなければならないはずです。いふまでもなく、そのめいめいの方法が、個人の教養を形づくるのであります。つまり、一つの共同体には、それに固有の一つの「生きかた」があり、また一人の個人には、それを受けつぎながら、しかもそれと対立する「生きかた」がある。逆にいへば、共同体の「生きかた」を拒否しながら、それと合一する「生きかた」があるのです。

『文化破壊の文化政策


 文化の厚み

 政治、経済、外交などと異なり、文化に関するかぎり、私たちは優劣や希望、絶望の観点からものを見ないほうがよい。文化に関するかぎり、長所は必ず短所に通じるものなのだ。一番大切なことは、自分の長所を知ってそれを助長し、短所を知ってそれを抑制するということよりも、長短とは関わりなく、日本の文化は私たちの「生き方」なのだという、ただそれだけの理由でそれを愛し、それに自信をもつことである。が、その態度はおそらくこうした説得によって得られるものではなく、そういう風にして生きている人を見つけることによってしか得られはしまい。
 もし私たちが、物を愛し造る職人を、それを意義づけし、目的を強いる文化人よりも尊重するように心がけさへしたら、日本の文化は今よりも「良く」なるであろうとは言わない。「深く」なり「厚み」を増すであろう。

『私の幸福論』


日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)

日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)

私の国語教室 (文春文庫)

私の国語教室 (文春文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

ハムレット (新潮文庫)

ハムレット (新潮文庫)


 必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞(はじ)ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。

── 坂口安吾(『日本文化私観』)