NAKAMOTO PERSONAL

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世界に誇れる美点5つ

「外国人旅行者も驚く、日本が世界に誇れる美点5つ」(CNN.co.jp)
 → http://www.cnn.co.jp/travel/35023868.html?tag=top;mainStory

日本は、まるで現代技術の周りを古き伝統が回っている万華鏡のような魅惑的な国だ。この国には、創造力、奇抜なファッション、古風な美しさ、効率的な事業、そして目もくらむファンタジーがある。日本は、全く予想もしない方法で五感を満足させてくれる場所だ。今回は、私が日本を訪問した際に驚かされた点を紹介する。


物価は高いが、手頃な価格のサービスや製品も
私の日本に対する先入観の1つに物価の高さがあり、それが訪日を先延ばしした理由の1つだった。たしかに日本は物価が高い。ギフト用の箱に入ったメロンが1個1万500円で売られている。また成田空港から東京までのタクシー代は約2万8000円もかかる。

しかし、日本には安くて便利な公共交通機関があるし、比較的安い食べ物がどこでも手に入る。デパートの地下の食料品売り場には、寿司、うなぎのかば焼き、お好み焼きなど、さまざまな食品が売っており、価格も破産するほど高いということはない。


見たことのないファッション
日本人はおしゃれで、多くの人が大変創造的な身なりをしている。東京の地下鉄や大通りでは、美へのきめ細かな配慮や「人はカンバスである」との哲学が身なりに表れている人を数多く見かける。

これは東京に限ったことではない。例えば古都京都の祇園では、文字通り頭からつま先まで、伝統的な足袋と着物に身を包んだ舞妓さんたちが普通に街を歩いている。ただ通り過ぎる人々を眺めるだけでも日本をもう1度訪れる価値はある。


ハイテクと伝統(とファンタジー)の融合
日本は今でもハイテク大国だ。そして、それを実感できる場所が「電気街」として知られる秋葉原だ。

秋葉原では、電器店が迷路のように立ち並び、ロボット、テレビ、ビデオゲームなど、ハイテク製品は何でも手に入るが、ここは単なる電気街ではない。

通りを歩いていると、不可解なコスチュームに身を包んだ人々に出くわす。今や秋葉原は、ハイテク、ロールプレイングゲーム、マンガなどに熱烈な関心を持つ「オタク」と呼ばれる人々のメッカとなっている。

周辺には無数のマンガ店やメイドカフェが立ち並ぶ。またフレンチ風のメイドやアニメのキャラクターの格好をした少女を数多く見かける。これは「コスプレ」と呼ばれ、彼らは好みのアニメやマンガのキャラクターのコスチュームを着て、そのキャラになりきる。秋葉原は未来と過去、ハイテクとファンタジーが融合している場所だ。


高層ビルや高速道路だけではない
日本には、世界に類を見ない壮大な高層ビル、素晴らしい幹線道路や鉄道網が作られてきたが、一方で強力な精神が宿る荘厳な建造物も作られてきた。

東京から約50キロ離れた古都鎌倉には、これまで見てきた仏像の中で一、二を争う見事な大仏がある。また1000年もの間日本の都だった京都は、日本の他の場所と同様、現代技術と伝統という対照的な2つが共存する場所だ。京都は人口約150万人の現代的な大都市だが、このような都市は世界に類を見ない。

京都は、地域全体に数千の神社や寺があり、さらに低層の木造住宅が立ち並ぶ祇園の街がある。祇園では、顔を白く塗った芸者(京都では芸妓と呼ばれる)たちが、音楽、舞踊、茶道などの日本の伝統芸能のけいこに勤しんでいる。

また京都は、歴史、伝統芸術、古代宗教の街であると同時に、任天堂のゲーム機「Wii」や小説家、村上春樹が誕生した場所でもある。


世界で最も清潔な場所
日本人のきれい好きは、日常生活のあらゆる面に見られる。日本は白い手袋をはめている女性(たまに男性も)をよく見かける地球上で最後の場所かもしれない。また、人々が定期的に外科手術用マスクを着けている世界初の場所かもしれない。

また日本の美徳を語る上で、トイレへの言及は欠かせない。驚くべき現代技術が詰まった日本のトイレに多くの旅行者が深く感謝している。

日本の人々はどこでも、困っている外国人旅行者を見つけると喜んで助けくれるし、先入観を打ち破るような驚きを与えてくれる。そんな美的原則を重視する日本という国に対し、われわれ旅行者もありがとうという言葉とおじぎを忘れてはならない。

我が聖典に曰く、

 見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞(はじ)ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。

── 坂口安吾(『日本文化私観』)