NAKAMOTO PERSONAL

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「内心の伝道」

天台宗座主が高野山参拝 1200年の歴史上初、相互訪問へ」(産經新聞
 → http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090615/acd0906151109000-n1.htm

 比叡山延暦寺大津市)の住職で天台宗の半田孝淳座主が15日、高野山真言宗総本山・金剛峯寺(和歌山県高野町)を訪れ、松長有慶座主らと「弘法大師降誕会」に参列した。天台宗トップの高野山への公式訪問は1200年の歴史上初めてで、金剛峯寺の役員は「今度は(参拝していただいた)お礼に訪問しなければならない」と話すなど、交流が深まりそうだ。
 両宗派のトップ交流は、天台宗を伝えた最澄と、真言宗を伝えた空海がともに中国で仏教を学んだ間柄ながら、晩年に教えや修行の違いなどから絶縁状態になり、交流が途絶えたとされる。私的なトップ訪問はこれまであったようだが、記録には残っていないという。
 今回の訪問は、半田座主と松長座主が宗教サミットなどで数回顔を合わせることがあり、半田座主が打診し、松長座主が高野山の最大行事に招待した。両宗とも「宗祖降誕会」があることから、金剛峯寺は「弘法大師降誕会」と名称を変更する気の使いようをみせた。
 天台宗一行は、半田座主と濱中光礼・宗務総長ら13人。半田座主は大師教会大講堂の壇に上がり、読経が流れる中、花御堂にまつられた稚児大師像に甘茶ををかける灌沐(かんもく)作法を行った後、奥の院を参拝した。
 真言宗関係者は「現在ではまったく確執はなく、今度はこちらがうかがうことになる。数年後には相互訪問できるだろう」と話し、天台宗関係者も「今回を機に交流が深まることは喜ばしい」と歓迎している。

天台座主高野山を来月公式訪問 1200年で初 」(産經新聞
 → http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090529/trd0905290130000-n1.htm

 真言宗の総本山、高野山金剛峯寺(和歌山県高野町)で来月開かれる行事に、天台宗の半田孝淳(こうじゅん)座主(ざす)が参拝することが分かった。天台宗トップの高野山への公式な訪問は、日本に真言宗天台宗が伝わった平安時代以来初めて。1200年間を通じて初めてとなる歴史的な参拝をそれぞれの事務方では、「相互理解のためになる」と歓迎している。
 両宗派のトップ交流をめぐっては、天台宗を伝えた最澄と、真言宗を伝えた空海の交流をめぐる逸話が有名。2人はともに中国(唐)で仏教を学んだ留学仲間で、帰国後も交流を続けていた。しかし、晩年には教えや修行をめぐる考え違いから確執が生まれ、絶縁状態になった経緯がある。教典を借りようと弟子を派遣した最澄に対して、空海が激しい内容の手紙で貸し出しを拒否し、交流が途絶えたと伝わっている。
 天台宗務庁によると、天台座主高野山参拝は、過去に私的にはあったようだが、公式訪問は約1200年間、一貫して確認されていない。歴代の天台座主の公式動向を記録した「天台座主記」にも記載がないという。
 高野山真言宗の宗務所の話でも、最澄と空海が絶縁する前に弟子が行き来した記録はあるものの、天台座主の訪問の記録はないという。逆に高野山真言宗の座主の比叡山訪問は、平成17年の比叡山開宗1200年行事の際にあったが、その時は他の仏教教団トップらと一緒だった。高野山真言宗座主の比叡山訪問には、天台宗が仏教やキリスト教、イスラム教など世界の宗教指導者らが一堂に会する「宗教サミット」にも力を入れていることが背景にあったが、逆に天台座主高野山を公式に訪れたことはなかった。
  今回の訪問は、天台宗の半田座主と、高野山真言宗の松長有慶(ゆうけい)座主の交流がきっかけとなった。宗教協力の催しなどで席を共にする機会が何度かある中で親しくなり、半田座主側が訪問を打診。松長座主側が、「せっかく来ていただくなら、高野山の最大行事に」と「宗祖降誕会」に招待したという。毎年6月15日に開かれる宗祖降誕会は、空海の誕生を祝う高野山の最大行事。
 天台宗では「過去はともかく、現代ではまったく確執はない。交流を深めさせていただくのはいいこと」。高野山真言宗も「宗祖に関連する行事に参拝していただきありがたい。今後のさらなる交流につなげていきたい」と話している。
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 ■天台宗 最澄伝教大師767?〜822)が延暦25(806)年に開いた。総本山は比叡山延暦寺(滋賀県大津市)で世界文化遺産。1571年には織田信長に焼き討ちに遭っている。現在の半田孝淳座主は256代座主。
 ■真言宗 空海(弘法大師774〜835)が弘仁7(816)年に開いた。高野山真言宗としての総本山は高野山金剛峯寺(和歌山県高野町)で世界文化遺産。現在の松長有慶座主は412代の座主。
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 宗教学者の山折哲雄さんの話 旧仏教を代表する双璧(そうへき)が公式訪問し、理解を深めることは歴史的に見れば画期的なエピソードだ。最近、近畿地方の有名神社と寺院の神職と僧侶がともに伊勢神宮に参拝するなど、宗教間に共存の伝統が復活したことと同様に、戦後の心の荒廃や教育の衰退が問題になる中、本来の精神的基盤が見直されるようになるだろう。


1200年もの間交流がなかった事ということ自体驚きだけれど、画期的で喜ばしく、嬉しくなる出来事です。


近親憎悪。近い者同士は憎しみ合う傾向があるようです。
例えばプロテスタントとカソリック。新興宗教同士もその傾向がある。
信者、会員、門徒たちが、互いの宗教を批判し罵り、自分の神様、仏様が唯一絶対と独善的となる。
もちろん多神教、一神教の違いはあり、唯一絶対の神が信仰の対象になっていれば仕方のないことではありますが。


しかし、その一神教のはずのクリスチャンでもある山本七平は「内心の伝道」ということを言っています。

 批判とは外部から行うことであり、伝道とはその中に入って、その中の人のわかる言葉で語ることである。

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 いったい、いまわれわれは、ある集団、たとえば創価学会の中に入っていって、そこの言葉で、その人たちが受け入れられる言葉で福音を語れるであろうか。その人たちへの「内心の伝道」をもっているだろうか。
 もちろん、批判はできる、しかしそれは「内心の伝道」をもっていることではなく、時には逆に、相手と自分の間を遮断してしまうにすぎない。そして、そういう相手にタッチしないことが、何やら自分の中に、清浄な信仰を保っていることの証拠であるかのように錯覚する。
 そのときその人には、その相手への「内心の伝道」はすでにもっていなかったと考えるべきであろう。そしてこの「内心の伝道」を失ったとき、それは個人としても宗教団体としても、その生命を失ったときであろうと私は思う。


あそこの宗派はここが変だ、あの教祖はこんな悪事を働いている、と他宗派の批判ばかり。
自分たちの仲間内で、仲間内の言葉で、自分たちの教えを反芻し、満足している者ばかり。

もちろんこれは宗教だけに限ったことではない。



そして、心の学問、心学の祖である石門心学の石田梅岩は言います。

「仏老荘ノ教モ、イハバ心ヲミガク磨種(トギグサ)ナレバ、舎(スツ)ベキモ非ズ」

心を磨くためになるのであればどんな宗教でも構わない、と。


石田梅岩 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E6%A2%85%E5%B2%A9