NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

真実

「『卓上四季』核の懸念(8月21日)」(北海道新聞
 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/fourseasons/

「戦争は人類に多くの利益をもたらしてくれた」。坂口安吾が逆説的に振り返る。民族や文化が交流し、科学と文明が進んだためだ。だが原爆で事態が一変した。「兵器の魔力が空想の限界を超すに至って…もはや、戦争をやってはならぬ」(戦争論)▼武器があれば試したくなる。ベトナム戦争の当時、ニクソン米大統領がキッシンジャー補佐官と議論した。発電所や港への攻撃拡大を主張する補佐官に、大統領が言う。「わたしは、核爆弾を使いたい」▼補佐官は驚いた。「それはあんまりです」。大統領は譲らない。「核爆弾だよ。心配なのか。君には大きなことを考えてほしい」。やりとりの録音テープが残っている。結局、核使用は断念した▼先日はロシア軍幹部が「核攻撃の目標になる」とポーランドに警告した。ミサイル防衛施設の配備で米国と合意したことへの反発だ。いわく「こうした標的は真っ先に破壊される」▼核保有国パキスタンでは、ムシャラフ大統領が辞任した。政情が揺らいでいる。百五十発とされる核を持つ国だ。核兵器や核技術は、きちんと管理されるのか。イスラム過激派などへの流出は大丈夫か。不安が膨らむ▼ニクソン氏のような人物は、どこの国にも現れ得る。側近の制止を聞く保証はない。核廃絶を進めるしか道はない。「戦争は終わった…こりることを知らねばならぬ」。安吾の言葉は真実だ。

核の廃絶には賛同するが、気軽に“真実”を語る者を、ぼくは信じない。


 たとえば戦争中は勇躍護国の花と散った特攻隊員が、敗戦後は専(もっぱ)ら「死にたくない」特攻隊員で、近頃では殉国の特攻隊員など一向にはやらなくなってしまったが、こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、自己自らを愚弄することにほかならない。もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。

 我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛しまもろうではないか。軍部の欺瞞とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。

 強要せられたる結果とは云え、凡人もまたかかる崇高な偉業を成就しうるということは大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於(お)いて、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を世界を明るくする。ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ。

 青年諸君よ、この戦争は馬鹿げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。
 要求せられた「殉国の情熱」を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出すことが不可能であろうか。それを思う私が間違っているのだろうか。

―― 坂口安吾『特攻隊に捧ぐ』(新潮文庫『堕落論』収録)より。


安吾の言葉は真実だ。