NAKAMOTO PERSONAL

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非「反戦平和」

「イラク反戦集会、世界各地で 東京では400人が行進」(朝日新聞)
 → http://www.asahi.com/national/update/0924/TKY200509240183.html

 イラクに駐留する米軍などの撤退を求める反戦集会やデモが24日、世界各地であった。時差に従って日本や韓国から始まって欧州に広がり、米国の首都ワシントンへ。03年以来、イラク戦争に反対して同時行動をしてきた反戦市民団体などが呼びかけた。

 東京都心には約400人が集まり、日本橋から日比谷までの約3.6キロを2時間ほどかけて行進した。国内の平和運動50団体の連絡組織ワールド・ピース・ナウ(WPN)の呼びかけ。時折雨の降るなか「終わらせようイラク占領」「石油のために人を殺すな」などと書いた横断幕やプラカードを掲げ、「武力で平和は作れない」と呼びかけた。

しかし、平和絶対主義には疑念を感じる。

福田恆存は言います。

 平和論とか再軍備反対とかいうものが青年一般に支持されている根底には、生命尊重の考え方があります。戦争中の生命蔑視の反動でありましょう。そう考えれば納得がいくのですが、これは問題だと思います。そして、遺憾なことに日本以外にはほとんどどこの国にも通じない思想であります。
昔は個人の生命よりも祖国が大切だというようなことを言った。祖国のためには死ぬことも辞さなかったのです。祖国というと昔の国粋主義の臭いがしていやですが、国や民族の生き方を守ろうとする気持ちは是認できます。個人の生命より全体の生命を大事にするのが当然でしょう。
 が、戦後、その全体の生命としての国家という観念が失われてしまった。ですから、個人の生命より大事なものはなくなったのです。それを無理に焦って、変な愛国心を捏造しようとしてもだめです。そんな付け焼刃ではどうにもなりはしない。が、個人の生命より大事なものはないといのは変態だということくらい自覚しなければなりますまい。それを常態として、いや、最高原理として、戦争と平和を論じることはできません。その点を、今の若い人たちに、よく考えてもらいたいと思います。

 言うまでもなく、最高価値としての平和は、それによって何らかの文化的価値を守るためのものではなく、他のあらゆるものに替えてもこれを守るべきものとなります。尤(もっと)も、この場合、「あらゆるものに替えても」は決して「命に替えても」というフレイズには繋がりません。なぜなら平和というのは生命保存の本能という言葉の代用語だからです。もともと自分たちには命に替えても守りたいもの、或は守るに値するものは何も無い事を教えられたからこそ、平和が最高価値になったのです。命に替えても守りたいもの、或は守るに値するものと言えば、それは各々の民族のうちにある固有の生き方であり、そこから生じた文化的価値でありましょう。その全部とは言わないまでも、その根幹を成すものをすべて不要のもの、乃至(ないし)は悪いものとして否定されれば、残るものは生物としての命しかありますまい。平和が最高価値と言うのは、生命が最高価値ということです。その意味でもエゴイズムとヒューマニズムとのすり替え、或は混同が生じております。

―─ 福田恆存日本への遺言