NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

一日一言「善と悪」

二月八日 善と悪


 世の中のすべてのものは、人に宿ってその心となるが、ゆえに心は活物(いきもの)であって、常に生き生きとしている。心は一つの事象に感じて動くもので、これを意と言う。動くときは人の気持ちが主体となるがゆえに、善ともなれば悪ともなるのである。自然体で形にこだわらない思いやりを善と名づける。形にこだわって自然体ではない思惑が入ることを、悪と言う。それが私利私欲となる。


  そことなくそよぐ難波の浦風に
      よしあしのみやみだれそむらん   <三輪執斎

―― 新渡戸稲造(『一日一言』)


アンゴ先生、かく語りき。

 すべて人間世界に於ては、物は在るのではなく、つくるものだ。私はそう信じています。だから私は現実に絶望しても、生きて行くことに絶望しない。本能は悲しいものですよ。どうすることも出来ない物、不変なもの、絶対のもの、身に負うたこの重さ、こんなイヤなものはないよ。だが、モラルも、感情も、これは人工的なものですよ。つくりうるものです。だから、人間の生活は、本能もひっくるめて、つくることが出来ます。

── 坂口安吾(『余はベンメイす』)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

一日一言「善と悪」

永遠の恋愛

 永遠の戀愛などといふものはない。が、永遠といふ言葉の意味が問題なのです。分離のない結合が永遠につづくといふ意味では、戀愛は永遠ではありません。さういふ「いちやつき」を戀愛と思ひこんでゐるから、それが永遠でないといつて腹をたてたり、あるいは諦めてしまつたりするのです。

── 福田恆存(『私の幸福論』)

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

賢者と愚者

オルテガを読み返す。

 賢者は自分がもう少しで愚かになり下がろうとしている危機をたえず感じている。そのため彼は、身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その努力のうちにこそ英知があるのだ。ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分がきわめて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。・・・・・愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その盲目の世界の外を散歩させ、力ずくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。ばかは死なねばなおらないのであり、救いの道はないのである。

── オルテガ(『大衆の反逆』)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

『大衆の反逆』

今月はオルテガ・イ・ガセット。
今晩からNHK「100分 de 名著『大衆の反逆』オルテガ
 → http://www.nhk.or.jp/meicho/

インターネットやSNSの隆盛で常に他者の動向に細心の注意を払わずにはいられなくなっている私たち現代人。自主的に判断・行動する主体性を喪失し、根無し草のように浮遊し続ける無定形で匿名な集団のことを「大衆」と呼びます。そんな大衆の問題を、今から一世紀近く前に、鋭い洞察をもって描いた一冊の本があります。「大衆の反逆」。スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセット(1883 - 1955)が著した、大衆社会論の嚆矢となる名著です。

社会のいたるところに充満しつつある大衆。彼らは「他人と同じことを苦痛に思うどころか快感に感じる」人々でした。急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、人々は自らのコミュニティや足場となる場所を見失ってしまいます。その結果、もっぱら自分の利害や好み、欲望だけをめぐって思考・行動をし始めます。自分の行動になんら責任を負わず、自らの欲望や権利のみを主張することを特徴とする「大衆」の誕生です。20世紀にはいり、圧倒的な多数を占め始めた彼らが、現代では社会の中心へと躍り出て支配権をふるうようになったとオルテガは分析し、このままでは私たちの文明の衰退は避けられないと警告します。

オルテガは、こうした大衆化に抗して、自らに課せられた制約を積極的に引き受け、その中で存分に能力を発揮することを旨とするリベラリズムを主唱します。そして、「多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾ける寛容性」や「人間の不完全性を熟知し、個人の理性を超えた伝統や良識を座標軸にすえる保守思想」を、大衆社会における民主主義の劣化を食い止める処方箋として提示します。

政治家学者の中島岳志さんによれば、オルテガのこうした主張が、現代の民主主義の問題点や限界を見事に照らし出しているといいます。果たして、私たちは、大衆社会の問題を克服できるのか?現代の視点から「大衆の反逆」を読み直し、歴史の英知に学ぶ方法やあるべき社会像を学んでいきます。


「第1回 大衆の時代」

【放送時間】
2019年2月4日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2019年2月6日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2019年2月6日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
中島岳志東京工業大学教授)…著書『保守と立憲』『保守と大東亜戦争』等の著書で知られる政治学者。
【朗読】
田中泯舞踊家
【語り】
小口貴子
大衆は「みんなと同じ」だと感じることに、苦痛を覚えないどころか、それを快楽として生きている存在だと分析するオルテガ。彼らは、急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、自らのコミュニティや足場となる場所を見失い、根無し草のように浮遊を続ける。他者の動向のみに細心の注意を払わずにはいられない大衆は、世界の複雑さや困難さに耐えられず、「みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険性にさらされ」、差異や秀抜さは同質化の波に飲み込まれていく。こうした現象が高じて「一つの同質な大衆が公権力を牛耳り、反対党を押しつぶし、絶滅させて」いくところまで逢着するという。第一回は、オルテガの社会分析を通して、大衆社会がもたらすさまざまな弊害や問題点を浮き彫りにしていく。

オルテガ『大衆の反逆』 2019年2月 (100分 de 名著)
大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)
大衆への反逆 (文春学藝ライブラリー)

平安の主義

 教育の目的は、人生を発達して極度に導くにあり。そのこれを導くは何のためにするやと尋ぬれば、人類をして至大の幸福を得せしめんがためなり。その至大(しだい)の幸福とは何ぞや。ここに文字の義を細かに論ぜずして民間普通の語を用うれば、天下泰平・家内安全、すなわちこれなり。今この語の二字を取りて、かりにこれを平安の主義と名づく。人として平安を好むは、これをその天性というべきか、はた習慣というべきか。余は宗教の天然説を度外視する者なれば、天の約束というも、人為(じんい)の習慣というも、そのへんはこれを人々(にんにん)の所見にまかして問うことなしといえども、ただ平安を好むの一事にいたりては、古今人間の実際に行われて違(たが)うことなきを知るべきのみ。しからばすなわち教育の目的は平安にありというも、世界人類の社会に通用して妨(さまたげ)あることなかるべし。
 そもそも今日の社会に、いわゆる宗旨なり、徳教なり、政治なり、経済なり、その所論おのおの趣(おもむき)を一にせずして、はなはだしきは相互(あいたがい)に背馳(はいち)するものもあるに似たれども、平安の一義にいたりては相違(あいたが)うなきを見るべし。宗旨・徳教、何のためにするや。善を勧めて精神の平安をいたすのみ。政治、何のためにするや。悪を懲(こ)らし害を防ぎて、もって心身の平安を助くるのみ。経済、何のためにするや。人工を便利にして形体の平安を増すのみ。されば平安の主義は人生の達するところ、教育のとどまるところというも、はたして真実無妄(むもう)なるを知るべし。

── 福沢諭吉(『教育の目的』)


1901年(明治34年)2月3日 福澤諭吉 没

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)