NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「人生を決定した小室直樹先生との出会い」

「中高年は『肩書のない余生』に備えよ」(日経ビジネスオンライン
 → https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/122600095/100300038/

 たまたま、とある医学の世界の重鎮に招かれて、パーティのようなものに行ったのだが、驚くべき光景を目にした。今年58歳になった私と同年代か、それより少し上の東大医学部教授たちが、その重鎮に媚びを売って、猟官運動をしているのである。

 東大の医学部の教授というと、受験の世界では最難関とされる東大医学部の卒業生の中の、勝ち組の中の勝ち組と言える存在である。

 その彼らが、定年を数年後に控えて、次のポストのために実力者にペコペコしていた(これは私の主観かもしれないが、そうとしか見えなかったのである)。

 私は、30代の後半から常勤の医師をやめ、フリーターのようなことを続けてきたので、定年なるものを意識したことはないが、「人生100年時代」には、定年後の余生があまりに長いので、現役のころの肩書がいくら立派でも、その後の人生のことを考えておかないとサバイバルできないと痛感した。

 今回は、肩書が通用しなくなってからの生き方とその準備について論じてみたい。


週刊誌でのバイト時代に開眼した
 実は、私が肩書に頼らない生き方、つまり、東大の医学部を出ている以上、東大は無理でもどこかの教授を目指すとか、大病院の院長を目指すというありきたりの人生でない生き方、を志したのは、大学5年生の夏のことである。

 その頃、学校の成績が悪かったこともあるが、小室直樹という不思議な学者と出会ったことが、その後の人生を決定づけた。

 当時、私は週刊プレイボーイという雑誌で、フリーの記者のアルバイトをしていた。キャンパス情報や医学ネタの取材記者を主にやっていた。

 大学5年生の7月に、ある編集者から、今度、「小室直樹博士のヤング大学」という連載企画をやるから、東大生なり、議論のできるような学生を集めてくれと言われた。学生を集めるだけで、それなりの原稿料がもらえるので一も二もなく引き受けた。

 当時、小室直樹氏の名前くらいは知っていた。世間で悪者にされていた田中角栄氏や戸塚ヨットスクール戸塚宏氏を擁護していた変わった学者という認識だった。

 しかし、雑誌の収録用に講義が始まると、発想の斬新さに驚かされることの連続だった。私もそれほど教養がある方ではないが、恐らくは、世の中の定説とは違うものだろうというくらいのことはわかった。

 それ以上に驚かされたのは、その生き方である。

 京都大学を出て、当時、日本のトップレベルの経済学者を集めていた大阪大学の経済学研究科の博士課程を経て、米マサチューセッツ工科大学の大学院や米ハーバード大学の大学院で経済学を学びながら、社会学に転向して、日本の師に破門され、今度は東大法学部の政治学の大学院に入り、最終的に法学博士の学位を東大から受けるというのに、常勤の大学教員の地位を得ることはなかった。


深酒し路上で寝る破天荒な先生
 そこで自主ゼミを開いたが、そこからそうそうたる面々を輩出している。最近、その評伝がでたのだが、そのゼミ出身者で彼を師と仰ぐ面々が推薦の言葉を寄せている。橋爪大三郎氏、宮台真司氏、大澤真幸氏、そして副島隆彦氏である。

 東大非常勤講師以外に肩書のないこの学者は、家に電話も引いておらず、ときにお酒を飲み過ぎて、道端に倒れているという暮らしを営んでいた。私の上司の編集者が彼の話を聞いたり、原稿を書いてもらうために、電報を打ったり、道に倒れていないかを見に行ったりしているのを知り、肩書に頼らない生き方に憧れを抱くようになっていった。

 妻をもらい、後に生活はかなり改まったようだが、執筆と講演は77歳で亡くなる直前まで精力的に続けられた。

 のちのソ連の崩壊を日本で初めて(下手をすると世界で初めて)予言する本を、私が出会ったころすでに書いていた(誰も信じなかったようだが、この本は売れた)のだが、肩書より言っていることの面白さで生きる方がずっとすごいと憧れることになったのだ。


肩書欲しさに重鎮にペコペコ
 僭越なようだが、このときの決意が今の自分(小室先生ほど世間の評価は高くないだろうが、肩書に頼らず、700冊以上の著書を出し、映画監督など好きなことができているのは確かだ)のベースとなっている。引退のない仕事なので、定年の心配もしていない。

 一方で、私が医学界の重鎮のパーティで見たのは、60歳近くなって、肩書の呪縛から逃れられない人たちである。

 東大教授を退官した後、医者の免状があるのだから、開業もできるだろうし、週の半分も医者のバイトをすれば、子どもが独り立ちしていれば十分生活でき、趣味の世界に生きることもできるはずだ。それでも東大を退官後も立派な肩書が欲しいから、くれそうな人にペコペコしているように見えた。

 ただ、一つ言えることは、仮に別の大学の医学部で教授のポストを得たり、大きな病院の院長職を得られたとしても、70歳前後で、それも引退しないといけなくなる。

 60歳前後で開業するなら、そこから流行るクリニックも目指せるが、70歳過ぎだと、いくら元東大教授でも難しいだろう。文筆であれ、新たな医学ビジネスであれ、別の世界でデビューするならなおのこと難しくなるだろう。

 私も長年、老年精神医学に取り組んできているが、定年前の社会的地位の高い人に限って、定年後、引退後の適応が悪く、それ以降の第二の人生を見出すのが困難な人が多いし、うつのようになる人も多い。

https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/122600095/100300038/?P=2&mds

没後8年、本物の学者がいた

「「ノーベル賞級」の社会学者、小室直樹を今こそ知るべき理由」(現代ビジネス)
 → https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58252

知の巨人
ベルリンの壁が崩れソ連が解体したのは、1989年から1991年にかけてのこと。その10年も前に、「ソビエト帝国が崩壊する」と、ずばり預言した人物がいた。小室直樹博士。知るひとぞ知る、本物の学者である。

博士は2010年9月に、77歳で亡くなった。それからもう8年も経つ。最近の若い人びとは、名前を知らないかもしれない。なんと残念なことだろう。そこで博士の業績と人物を、みっちり紹介することにしたい。

小室直樹博士は1932年生まれ。母子家庭で貧しかったが、少年時代から人並み外れた才能を示す。福島県会津高校を卒業し、京都大学理学部数学科に進んだ。

そのあと、大阪大学大学院で経済学を専攻し、フルブライト奨学生としてアメリカに留学、ミシガン大学でスーツに計量経済学を、MITでサミュエルソン理論経済学を、ハーバード大学パーソンズ社会学を、ホマンズに社会心理学を学ぶなどして帰国。

東京大学大学院では、丸山眞男政治学を、川島武宜法社会学を、富永健一社会学を、中根千枝に社会人類学を、退職していた大塚久雄に経済史学を学ぶなど、学問の境界を越えて社会科学の本質をわが物としようとした。

率直なもの言いのため疎まれることも多く、大学の職に就かないまま研究を続ける。学生の指導には熱心で、大学院で自主ゼミを主催し、多くの後進を無償で教えた。私も小室ゼミで学んだひとりである。

小室博士の経歴をみると、すごすぎる。だが博士は、少しも気取ることなく、学問となると子どものように素直に、目をくりくりさせるのである。

アカデミズムの世界には、「威張り屋」が多い。学識を鼻にかけ、上から目線である。そのくせ度量が狭く、ちょっとでも批判されようものなら逆恨みする。

こんなことでは、学問などできない。そんなのばかり見てきた私は、小室博士の純粋な姿勢に打たれた。身なりに構わず、逆境も気にせず、脇目もふらずに研究課題と格闘する。これこそ学者のあるべき姿ではないか。


ソビエト連邦の崩壊を予言
ソ連崩壊の預言は、まぐれ当たりではない。緻密な研究と洞察のたまものだ。

ソ連は急性アノミー(社会の無規範状態)に陥っている。プロレタリア独裁をしていた共産党の正統性を、フルシチョフスターリン批判をして、破壊したからだ。人びとは、ローマ教皇が悪魔だと言われたキリスト教徒みたいになった。

ソ連経済のアキレス腱は農業だ。集団化のせいで勤労のエトス(勤労を美徳とする道徳的な慣習)が持てなくなったのだ。また、計画経済のもとでは、市場メカニズムが機能しない。西側に遅れていく。特権的な官僚に、憎しみが集まる。こうなると最後は、共和国が連邦を離脱し独立して、ソ連は崩壊するだろう。」

小室博士は、崩壊の原因や解体のプロセスを、10年も前にピタリと言い当てた。それも、公開の資料だけにもとづいて。社会学ウェーバーやデュルケムの議論を自在に使いこなした、見事な分析である。

ソビエト帝国の崩壊』(光文社カッパビジネス、1980年)は、ベストセラーとなった。当時、本当にソ連が崩壊するはずはない、トンデモ本のたぐいだ、と思ったひとが大部分だったろう。10年経って、冷戦が終わるころには、この本のことを思い出すひとは少なかった。小室博士のすごさをみんな、わからなかったのだ。


いま蘇る、小室直樹博士の実像
小室直樹博士の生涯をふり返る『評伝 小室直樹』(上・下)(ミネルヴァ書房、2018年9月刊)が、このほど出版された。

著者は、村上篤直氏。長年、小室博士を心の師としてきた弁護士である。村上氏は小室博士と面識がない。死ぬしかないとまで思い詰めた若い時代、博士の著作と出会って、命を救われたという。

以来、小室博士の著書や論文を、どんな小さなものまで追い求め、リストにして、「小室直樹文献目録」としてウェブで公開してきた。あわせて、「小室直樹博士略年譜」も執筆し、公開した。

どちらも、小室博士を記念してまとめられた『小室直樹の世界』(橋爪大三郎編著、ミネルヴァ書房、2013年)に収められている。これが機縁となって、版元から依頼を受け、執筆を引き受けて、小室博士を知る100名以上の関係者に4年にわたり丹念な取材を重ね、上・下巻をあわせて1500ページにのぼる大作を書き上げた。

面白い。読み始めると、止まらない。小室博士が血肉をえて、ページのなかを躍動している。発売以来、多くの読者に迎えられている。小室博士を知らない、もっともっと多くの読者に読まれてほしいと願う。


伝統右翼の系譜につながる意外な事実
私も知らなかった事実が多い。

いちばん重要なのは、小室博士を指導した経済学者の市村真一氏が、右翼思想の持ち主で、平泉澄氏の薫陶を受けていたことだろう。

戦前戦中の、皇国思想の権威だった平泉氏は、戦後、私塾を開いていた。小室博士は市村氏を通してその塾の塾生となり、研鑽を積んでいた。小室博士が「右翼」であるとは、なんとなく知ってはいたが、ここまで本格的だとは気がつかなかった。

全共闘くずれの「左翼」学生の私を、ゼミで親身に指導してくれた。政治的立場と学問とは、無関係だと態度で示してくれた。

これを踏まえると、小室博士と山本七平氏の邂逅も、必然的だと理解できる。

何かの機会に同席した小室博士と山本氏は、浅見絅斎の『靖献遺言』が重要だという認識で一致し、意気投合した。『靖献遺言』は、勤皇の志士のバイブルとも言える、闇斎学派の重要著作である。その後二人は交流を重ね、「日本教」をテーマに対談本も出している。

尊皇思想をベースにする小室博士と、キリスト教をベースにする山本氏とは、互いを尊敬し、同志とも言えるつながりを持ち、終生交わりを重ねた。戦後日本の病根を、宗教と社会科学のメスでえぐり出そうとする使命感に、共通するものがあった。

戦後日本の知識界で、小室直樹博士は特別の位置を占めた。その欠落は、埋められないだろう。小室博士への評価はまだ、十分でない。

小室博士の学問と思想を理解することは、日本人が戦後という時代をみつめ、その先へ進むための足場になる。平成という時代にひと区切りがつくこの時期に、小室博士の生涯をふり返る評伝が刊行されたことを喜びたい。


うちのコレクション。


小室直樹文献目録』 http://www.interq.or.jp/sun/atsun/komuro/
『2011年04月18日(Mon) 「小室直樹の学問と思想」』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20110418
『2010年09月29日(Wed) 追悼 小室直樹』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20100929
『2010年09月28日(Tue) 天才小室直樹、逝く』http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20100928

 自然科学の世界のことはよく知らないが、現在の日本の社会・人文系の学者の中で天才的な人を挙げるとすれば、小室直樹氏が第一に思い浮かぶ。彼の履歴が独特である。まず数学者として出発した。多くの社会・人文系の学者が数学嫌いであるのと反対である。その数学を生かしうる近代経済学に入り、そこから社会学・法学の方面に進んできた。背景や人柄はまるで違うが私はハイエク先生の生まれた道を思い合わせる。ハイエク先生も初めは数学を使う経済学者だったが、次第に社会学や法学に関心を向けられ、晩年は法哲学者、あるいは哲学者の風貌があり、また仕事もその分野のものだった。小室氏もその方向に進まれるような予感がする。
 一般読者の前に姿を現した最初の時から、小室氏は穎脱(えいだつ)であった。袋に入れた錐(きり)の先は、突き抜けて袋の外に抜け出ずにはおれないように、断然頭角を現さざるをえないような特異な才能の人を穎脱と形容するが、小室氏は正に穎脱の人であり、逆に私はこの漢字を見ると小室氏の顔が浮かんでくる。
 東京裁判史観の戦後の風潮の中で小室氏は『新戦争論』を書き、国際法は戦争から始まること、また戦争は国際法的に合法であることを喝破したが、そのような法学者が戦後の日本にほかにいたであろうか。健康な人だけを研究して医学ができるわけはない。平和の状態の研究だけから国際法ができるわけはない。病人を研究して医学ができ、戦争や紛争を研究して国際法ができる。この世界の常識が戦後の日本の法律学者や政治家に欠けていた。「平和を叫べば平和が来る」というのは「念力主義」にすぎないと喝破したのも小室氏である。
 また戦後の日本の官民が挙げて神聖視していた国連(The Unied Nations)が、戦争中の連合国(United Nations)と同じことを指摘したのも私の知る限り小室氏が最初の人である。そして国連憲章の中には日本に対する「敵国条項」があって、それは潜在的に日本に危険であることを指摘したのも私の知る限り小室氏が初めてである。今日ではこのことをあたかも自分が前から知っていたかのごとく言ったり、書いたりする政治学者や物書きが多いが、私には何だか笑止に思われる。また、ソ連の崩壊を本にして出したのも日本では(外国は広いからどこかにあるかもしれない)小室氏が初めてである。

── 渡部昇一(『自らの国を潰すのか』)

日本教の社会学

日本教の社会学

国民のための戦争と平和

国民のための戦争と平和

『憂国忌』

ミシマの日。

一寸ばかり芸術的な、一寸ばかり良心的な。

・・・要するに、一寸ばかり、といふことは何てけがらはしいんだ。

── 三島由紀夫(『鏡子の家』)

ちょっとばかり、ということは何て汚らわしいんだ。


今日は憂国忌


三島由紀夫ら追悼 福岡で『憂国忌』」(産経新聞
 → https://www.sankei.com/region/news/181124/rgn1811240024-n1.html

 昭和45年11月25日に東京の陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で自決した作家、三島由紀夫氏らを追悼する「福岡憂国忌」が23日、福岡市東区筥崎宮参集殿で行われ、約200人が参列した。

 市民団体などでつくる実行委員会が主催。筥崎宮の田村邦明権宮司らによる祭典の後、参列者は黙祷(もくとう)をささげ、三島氏や、三島氏とともに自決した森田必勝氏の辞世の句を朗詠した。

 また、歴史作家の浦辺登氏が、「三島由紀夫西郷隆盛 両雄をつなぐ玉利家3代」と題して講演した=写真。薩摩出身で、西郷が国の再建を託したとされる喜造氏や、三島氏に剣道の稽古をつけた三之助氏ら玉利家3代にわたる西郷、三島両氏との関わりを紹介した。

三島由紀夫研究会』 http://mishima.xii.jp/
三島由紀夫文学館』 http://www.mishimayukio.jp/

 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 

────

 日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

── (『檄文』)

不道徳教育講座 (角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

若きサムライのために (文春文庫)

若きサムライのために (文春文庫)

 私は三島に「福田さんは暗渠(あんきょ)で西洋に通じてゐるでせう」と、まるで不義密通を質すかのやうな調子で極め付けられたことがある。・・・・どう考へても三島はそれを良い意味で言つたのではなく、未だに西洋の亡霊と縁を切れずにゐる男といふ意味合ひで言つたのに相違ない。それに対してどう答へたか、それも全く記憶にないが、私には三島の「国粋主義」こそ、彼の譬喩(ひゆ)を借りれば、「暗渠で日本に通じてゐる」としか思へない。ここは「批評」の場ではないので、詳しくは論じないが、文化は人の生き方のうちにおのづから現れるものであり、生きて動いてゐるものであつて、囲いを施して守らなければならないものではない、人はよく文化と文化遺産とを混同する。私たちは具体的に「能」を守るとか、「朱鷺」を守るとか、さういふことは言へても、一般的に「文化」を守るとは言へぬはずである。

── 福田恆存(「覚書」一九八八年一月『福田恆存 思想の〈かたち〉』)

証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決

証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決

福田恆存と三島由紀夫〈上〉―1945~1970

福田恆存と三島由紀夫〈上〉―1945~1970

Freddie Mercury

1991年11月24日、フレディ・マーキュリー 没


27年。


「今日はフレディ・マーキュリーの命日。――クイーン映画『ボヘミアン・ラプソディ』によせて」(rockin'on.com)
 → https://rockinon.com/blog/rockinon/181860

映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見てから、頭の中でクイーンの曲が鳴りやまないと、ほとんどの人が口をそろえて言う。
初めてクイーンの音楽をちゃんと意識して聴いた、という若いリスナーも多い。そんな中には、まだバンドが続いていることを知らない人もいるのかもしれない。


今日でフレディ・マーキュリーが亡くなってから27年が経つ。
でも、クイーンは現役でライブをやり続けている。
2016年、フレディの生誕70年目に行われた武道館公演では、アダム・ランバートがボーカリストを見事につとめたが、フレディとジョン・ディーコン不在の喪失感はなく、まるで彼らがそこにいるような圧倒的な祝福感があった。
なぜそんな魔法のようなことが起きるのか?


それは、クイーンの曲が他のどのバンドも創造できなかったオリジナリティやエモーション、完成度を持っていることはもちろん、その前身バンド=スマイルから一緒だった(そしてフレディをボーカリストとしてバンドに招き入れた)ブライアン・メイロジャー・テイラーが、ものすごく健全にクイーンの楽曲と向き合い、バンドを自分たちの所有物ではなく世界中のファンのものとして開放しているからだろう。


映画でも描かれているように、クイーンはとにかく前しか向いていない。フレディがメンバーに病気を告げるシーンも、ライヴエイドのステージ出る直前のぞくぞくする興奮と緊張感も。
歌詞にもとてもよく表れている。“炎のロックンロール”も、“ドント・ストップ・ミー・ナウ”も、“ボヘミアン・ラプソディ”ですら「いいこともあれば 悪いこともある 僕にはたいしたことじゃない どっちにしても風は吹くのさ」と人生を受け止める。


曲を聴いていると、そしてまた映画が観たくなった。このループが止まらない。
まだの方は、上映しているうちに絶対に映画館で観てほしい。(井上貴子


映画にも出てきた「最後にして最愛の恋人」ジム・ハットンが、フレディとの出会いから彼が亡くなるまでの7年間を愛情をもってつづった『フレディ・マーキュリーと私』6刷出来ました。
http://www.rockinon.co.jp/product/book/25793


フレディ・マーキュリーと私

フレディ・マーキュリーと私


「僕はベッドの横の小さなネジ巻き式の携帯時計を止めた。
そういう時計がずっと欲しかったとフレディが言ったので、僕があげた時計だった。
7時12分前。僕は二度とその時計の針を動かさなかった」――本文より


ロッキング・オンのクイーン号は、好評につき現在一時的に品切れ中でご迷惑をおかけしております。書店で見つけた方はお早めにどうぞ。
次号12月1日発売のロッキング・オンでも、そんなクイーンの謎を解くきっかけになる貴重な記事を掲載します。



ボヘミアン・ラプソディ”のライヴエイド・バージョンなど初作品化音源が入ったサントラもファンはお聴き逃しなく!(井上貴子

ボヘミアン・ラプソディ(オリジナル・サウンドトラック)

ボヘミアン・ラプソディ(オリジナル・サウンドトラック)

『映画「ボヘミアン・ラプソディ」公式サイト』 http://www.foxmovies-jp.com/bohemianrhapsody/


「11月24日はフレディ・マーキュリーの命日です。代表曲「ボヘミアン・ラプソディ」に隠されたメッセージ」(tenki.jp)
 → https://tenki.jp/lite/suppl/grapefruit_j02/2018/11/24/28621.html
「世界のQueenフレディ・マーキュリーが教えてくれた『多様性』」(現代ビジネス)
 → https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58624



Official Queen Channel - YouTube』 http://www.youtube.com/user/queenofficial?feature=watch


ボヘミアン・ラプソディ(オリジナル・サウンドトラック)

ボヘミアン・ラプソディ(オリジナル・サウンドトラック)

Made in Heaven

Made in Heaven

オペラ座の夜

オペラ座の夜

クイーン・ジュエルズ(CCCD)

クイーン・ジュエルズ(CCCD)

一日一言「天地の力」

十一月二十三日 天地の力


 今日は新嘗祭天皇が新米を天地の神に供え、自らもこれを食する祭事。今は勤労感謝の日となっている)で、新しくとれた米を神に捧げ、感謝する日である。われわれは、毎日三度いただく食事を当然のように考えて、米の一粒のうちにどんなに大きな神仏の恵みを受けているかを忘れている。天地の力はみな穀物にあり、点の恵み、地のたまもの、人の働き、国の恩など、あまりに多く忘れがちである

── 新渡戸稲造(『一日一言』)

勤労感謝の日
「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」日。
本来は、秋の収穫を祝い感謝する新嘗祭である。


福田恆存に曰く、

 戦後の祝日の名称はまつたくでたらめで、抽象的な浅薄さをもつてゐる。「成人の日」「春分」「秋分」「こどもの日」「文化の日」「勤労感謝の日」。かうしてみると、一目瞭然だが、新時代、新世代から、やれ、天皇制だ、旧思想だと文句をいはれぬことだけしか念頭にない消極的防御姿勢から出てゐるのである。

 私たちの春は分散してしまひ、宗教と習俗とは緊密な結びつきをもたず、今日では、正月がもつとも大きな国民的祭日となつてゐる。が、太陽暦の正月は、春の祝ひとして、年季のよみがへりとして、かならずしも適当な日ではない。正月をすぎて、私たちは古き年の王の死を、すなはち、厳冬を迎へるといふ矛盾を経験する。しかも、さういふ矛盾について、ひとびとは完全に無関心である。アスファルトやコンクリートで固められた都会的生活者にとって、古代の農耕民族とともに生きてゐた自然や季節は、なんの意味ももたないと思ひこんでゐる。文明開化の明治政府が、彼岸を秋分の皇霊祭としたのは、天皇制確立のためではあつたが、今日の似非ヒューマニストよりは、まだしも国民生活のなかに占める祭日の意義を知つてゐたのだ。ヒューマニストたちにとつては、雛祭も端午の節句も、季節とは無関係に、たゞ子供のきげんをとるための「子供の日」でしかない。つまり、レクリエイションなのである。が、雛祭より「子供の日」のはうがより文化的であり知的であると考へるいかなる理由もありはしない。が、私たちが、どれほど知的になり、開化の世界に棲んでゐようとも、自然を征服し、その支配から脱却しえたなどと思ひこんではならぬ。私たちが、社会的な不協和を感じるとき、そしてその調和を回復したいと欲するとき、同時に私たちは、おなじ不満と欲求とのなかで、無意識のうちに自然との結びつきを欲してゐるのではないか。

── 福田恆存(『日本への遺言―福田恒存語録』)

一日一言「丸くなりすぎてもだめ」

十一月二十二日 丸くなりすぎてもだめ


 世の中のことに同調することは良いが、これも世のならい、あれも社会の傾向だと、心の中でやましいと思うことまで従っていては、弱みにつけこまれて社会の奴隷のようになってしまう。人間はあんまり丸くなりすぎてもだめである。


 かばかりの事は浮世の習ひぞとゆるす心のはてぞかなしき
 おのづから角(かど)一つあれ人心あまり丸きはころびやすきに

── 新渡戸稲造(『一日一言』)


安吾センセにも曰く、

 日頃自分の好き嫌ひを主張することもできず、訓練された犬みたいに人の言ふ通りハイハイと言つてほめられて喜んでゐるやうな模範少年といふ連中は、人間として最も軽蔑すべき厭らしい存在だと痛感したのである。

── 坂口安吾(『模範少年に疑義あり』)

一日一言「同じ谷川の水」

十一月二十一日 同じ谷川の水


 今日は一休(室町中期の臨済宗の僧。詩や書画に秀でていた)を偲ぶ日で、彼は文明十三年(西暦一四八一年)の今日、八十八歳でこの世を去った。


 雨あられ雪や氷とへだつれど落つれば同じ谷の水
 大水のさきに流るゝ橡殻(とちから)も身を捨てゝこそ浮ぶせもあれ
 あめあられ雪や氷もそのまゝに水と知るこそとくるなりけり
 奥山にむすばずとても柴の庵心がらにて世をいとふべし

── 新渡戸稲造(『一日一言』)


文明13年11月21日(1481年12月12日)一休宗純 没

有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け

── 一休

所詮この世は、あの世へ帰るまでの一休み。
雨が降るなら降ればいい。
風吹くなら吹け。


松岡正剛の千夜千冊「狂雲集」一休宗純』 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0927.html

狂雲集 (中公クラシックス)

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