NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

保守とは何か

 日本人が日本を愛するのは、日本が他国より秀れてをり正しい道を歩んで来たからではない。それは日本の歴史やその民族性が日本人にとつて宿命だからである。
 人々が愛国心の復活を願ふならば、その基は宿命感に求めるべきであつて、優劣を問題にすべきではない。日本は西洋より優れてゐると説く愛国的啓蒙家は、その逆を説いて来た売国的啓蒙家と少しも変わりはしない。その根底には西洋に対する劣等感がある。といふのは、両者ともに西洋といふ物差しによつて日本を評価しようとしてゐるのであり、西洋を物差しにする事によつて西洋を絶対化してゐるからである。

── 福田恆存『東風西風』

平成6年(1994)11月20日 福田恆存 没

翻訳家にして劇作家であり、戦後最大の保守思想家。
安吾ニーチェと並ぶ我が精神の三本柱の一つ。


現代日本人生活心得

五箇条の注文

  • 迷信は重んずべし
  • 正義の主張は犯罪と心得べし
  • 頭の切換へは軽々に行ふべからず
  • 流行語を用ゐるべからず
  • 民は由(よ)らしむべし知らしむべからず

── 福田恆存『(福田恆存評論集〈第7巻〉常識に還れ』)



保守とは何か?

 私の生き方ないし考へ方の根本は保守的であるが、自分を保守主義者だとは考へない。革新派が改革主義を掲げるやうには、保守派は保守主義を奉じるべきでないと思ふからだ。 私の言ひたいことはそれに尽きる。

──

 進歩や改革にたいして洋の東西を問はず、保守派と革新派とが示す差異は、前者はただそれを「希望」してゐるだけなのに反して、 後者はそれを「義務」と心得るといふことにある。保守派にとつて「私的な慾望」に過ぎないものが革新派にとつては「公的な正義」になる。 進歩は人間のごく自然な「現実」でありまた広汎(くわうはん)な人間活動の「部分」であり「手段」であると一方は考へるのだが、他方はそれを最高の「価値」に祀りあげ、 それこそ生存の「全体」であり「目的」であると考へる。

──

 保守派が合理的でないのは当然なのだ。むしろそれは合理的であつてはならぬ。保守派が進歩や改革を嫌うのは、あるいはほんの一部の変更をさへ億劫(おくくふ)に思ふのは、 その影響や結果に自信がもてないからだ。それに関するかぎり見す見す便利だと思つても、その一部を改めたため、他の部分に、 あるいは全体の総計としてどういふ不便を招くか見とほしがつかないからだ。保守派は見とほしをもつてはならない。人類の目的や歴史の方向に見とほしのもてぬことが、 ある種の人々を保守派にするのではなかつたか。

──

 保守派はその態度によつて人を納得させるべきであつて、イデオロギーによつて承服させるべきではないし、 またそんなことはできないはずである。

──

 だが、保守派が保守主義をふりかざし、それを大義名分化したとき、それは反動になる。 大義名分は改革主義のものだ。もしそれが無ければ、保守派があるいは保守党が危殆(きたい)に瀕するといふのならば、 それは彼等が大義名分によつて隠さなければならぬ何かをもちはじめたといふことではないか。

──

 保守派は無智といはれようと、頑迷といはれようと、まづ素直で正直であればよい。知識階級の人気をとらうなどといふ知的虚栄心などは棄てるべきだ。常識に随ひ、 素手で行つて、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆづればよいではないか。

── 福田恆存(『保守とは何か』)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

マクベス (新潮文庫)

マクベス (新潮文庫)

 福田恒存は私にとってたいへん重要な人物です。「世界は一つ」とか、「絶対的な理念」のようなものに傾倒しそうになったとき、常に福田が私の襟首を掴んで止めてくれるのです。

── 中島岳志(『kotoba 20号』)

現代の超克 本当の「読む」を取り戻す

現代の超克 本当の「読む」を取り戻す

一日一言「正しい判断」

十一月十八日 正しい判断


 物事をするときに正しい判断ができないのは、自分の損得を考えるからである。ちょうど物を見るとき光の前に立って、自分の影で暗くするようなもの。自分の利益のみを考えずに物事を行えば、たいがいのことにはまどわない。


 我れとわが身をば心の縛り縄
    解けて嬉しき広き世の中


 われと云ふ人形つかふ者は誰ぞ
    事々物々に気を付けて見よ

── 新渡戸稲造(『一日一言』)


フリードリヒ・フォン・シラーに曰く、

勇敢なる男は、自分自身のことは最後に考えるものである。

noblesse oblige!


『2013年05月18日(Sat) noblesse oblige』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20130518

私は、もう、ねむい。

 小説を読むなら、勉強して、偉くなつてから、読まなければダメですよ。陸軍大将になつても、偉くはない。総理大臣になつても、偉くはないさ。偉くなるといふことは、人間になるといふことだ。人形や豚ではないといふことです。
 小説はもともと毒のあるものです。苦悩と悲哀を母胎にしてゐるのだからね。苦悩も悲哀もない人間は、小説を読むと、毒蛇に噛まれるばかり。読む必要はないし、読んでもムダだ。
 小説は劇薬ですよ。魂の病人のサイミン薬です。病気を根治する由もないが、一時的に、なぐざめてくれるオモチャです。健康な豚がのむと、毒薬になる。
 私の小説を猥セツ文学と思ふ人は、二度と読んではいけない。あなたの魂自身が、魂自体のふるさとを探すやうになる日まで。
 私の小説は、本来オモチャに過ぎないが、君たちのオモチャではないよ。あつちへ行つてくれ。私は、もう、ねむい。

── 坂口安吾(『デカダン文学論』)

あつちへ行つてくれ。
私は、もう、ねむい。


堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

『戦争論』

戦争とは、他の手段をもってする政治の継続である。

── クラウゼヴィッツ『戦争論』

1831年11月16日 カール・フォン・クラウゼヴィッツ 没


『日本クラウゼヴィッツ学会』 http://www.clausewitz-jp.com/

 健康な人だけを研究して医学ができるわけはない。平和の状態の研究だけから国際法ができるわけはない。病人を研究して医学ができ、戦争や紛争を研究して国際法ができる。この世界の常識が戦後の日本の法律学者や政治家に欠けていた。「平和を叫べば平和が来る」というのは「念力主義」にすぎないと喝破したのも小室氏である。

── 渡部昇一『自らの国を潰すのか』

『【守屋 淳氏インタビュー】いま、クラウゼヴィッツの『戦争論』から何を学び取るべきか』 http://www.sbbit.jp/article/cont1/21815
『 3分でわかるクラウゼヴィッツの『戦争論』「相手の強みを真似て無力化する」 』 http://diamond.jp/articles/-/58175


戦争論 レクラム版

戦争論 レクラム版

新訂 孫子 (岩波文庫)

新訂 孫子 (岩波文庫)

米陸軍戦略大学校テキスト 孫子とクラウゼヴィッツ

米陸軍戦略大学校テキスト 孫子とクラウゼヴィッツ

一日一言「天からのなぐさめ」

十一月五日 天からのなぐさめ


 とうてい逃げられない困難で、不幸が長く続き、心も身も疲れはて、逃げる場所もかくれる場所もないと、人生の生きる生きる望みを失ったとき、心を落ちつけて、天を仰ぎ、心に念ずれば、どことなくなぐさめてくれる風がふいてくれるのはどうしてであろうか。


  霜枯れと見しも恵の露を得て
      緑にかへる庭の若草

 

── 新渡戸稲造(『一日一言』)



アライグマくん、ぼのちゃんを諭して曰く、

後でこまることをなんで今こまるわけ?

おまえってやっぱりヘンだぞ

後でこまるんだったら後でこまればいいじゃねえか。なんで今こまるんだよ

── アライグマくん (『ぼのぼの』

『2013年11月24日(Sun) ぼのぼの』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20131124

ぼのぼの 1 (バンブー・コミックス)

ぼのぼの 1 (バンブー・コミックス)

真理とは、退屈なものである

机の前の日めくりニーチェ


今日は14日。

 若者たちは興味深いものや
 突飛なものを愛し、
 それが正しいか間違っているかには、
 無関心である。
 より成熟した精神は、真理の中でも
 興味深く突飛なものを愛する。
 完全に成熟した頭脳は、
 ついには、地味で質素に見えるので
 普通の人にとっては退屈なものでしか
 ないようなことでも、真理を愛する。
 なぜなら彼らは気付いているからである。
 真理というものは
 単純に語られるのが常だからである。

日めくり ニーチェ

日めくり ニーチェ


正統とは正気である。
「正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである」


正統派保守思想家、チェスタトンは言います。

 正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説に陥ってきた人は少なくない。だが、実は、正統ほど危険に満ちたものはほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だったのだ。ある時はこちらに、ある時はあちらに、大きく身をこごめ、大きく身を揺らせているがごとくに見えながら、実はその姿勢はことごとく、彫刻にも似た優美さと、数学にも似た正確さを失わない。

── G.K.チェスタトン『正統とは何か』

正気と狂気の間―社会・政治論

正気と狂気の間―社会・政治論