NAKAMOTO PERSONAL

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没後8年、本物の学者がいた

「「ノーベル賞級」の社会学者、小室直樹を今こそ知るべき理由」(現代ビジネス)
 → https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58252

知の巨人
ベルリンの壁が崩れソ連が解体したのは、1989年から1991年にかけてのこと。その10年も前に、「ソビエト帝国が崩壊する」と、ずばり預言した人物がいた。小室直樹博士。知るひとぞ知る、本物の学者である。

博士は2010年9月に、77歳で亡くなった。それからもう8年も経つ。最近の若い人びとは、名前を知らないかもしれない。なんと残念なことだろう。そこで博士の業績と人物を、みっちり紹介することにしたい。

小室直樹博士は1932年生まれ。母子家庭で貧しかったが、少年時代から人並み外れた才能を示す。福島県会津高校を卒業し、京都大学理学部数学科に進んだ。

そのあと、大阪大学大学院で経済学を専攻し、フルブライト奨学生としてアメリカに留学、ミシガン大学でスーツに計量経済学を、MITでサミュエルソン理論経済学を、ハーバード大学パーソンズ社会学を、ホマンズに社会心理学を学ぶなどして帰国。

東京大学大学院では、丸山眞男政治学を、川島武宜法社会学を、富永健一社会学を、中根千枝に社会人類学を、退職していた大塚久雄に経済史学を学ぶなど、学問の境界を越えて社会科学の本質をわが物としようとした。

率直なもの言いのため疎まれることも多く、大学の職に就かないまま研究を続ける。学生の指導には熱心で、大学院で自主ゼミを主催し、多くの後進を無償で教えた。私も小室ゼミで学んだひとりである。

小室博士の経歴をみると、すごすぎる。だが博士は、少しも気取ることなく、学問となると子どものように素直に、目をくりくりさせるのである。

アカデミズムの世界には、「威張り屋」が多い。学識を鼻にかけ、上から目線である。そのくせ度量が狭く、ちょっとでも批判されようものなら逆恨みする。

こんなことでは、学問などできない。そんなのばかり見てきた私は、小室博士の純粋な姿勢に打たれた。身なりに構わず、逆境も気にせず、脇目もふらずに研究課題と格闘する。これこそ学者のあるべき姿ではないか。


ソビエト連邦の崩壊を予言
ソ連崩壊の預言は、まぐれ当たりではない。緻密な研究と洞察のたまものだ。

ソ連は急性アノミー(社会の無規範状態)に陥っている。プロレタリア独裁をしていた共産党の正統性を、フルシチョフスターリン批判をして、破壊したからだ。人びとは、ローマ教皇が悪魔だと言われたキリスト教徒みたいになった。

ソ連経済のアキレス腱は農業だ。集団化のせいで勤労のエトス(勤労を美徳とする道徳的な慣習)が持てなくなったのだ。また、計画経済のもとでは、市場メカニズムが機能しない。西側に遅れていく。特権的な官僚に、憎しみが集まる。こうなると最後は、共和国が連邦を離脱し独立して、ソ連は崩壊するだろう。」

小室博士は、崩壊の原因や解体のプロセスを、10年も前にピタリと言い当てた。それも、公開の資料だけにもとづいて。社会学ウェーバーやデュルケムの議論を自在に使いこなした、見事な分析である。

ソビエト帝国の崩壊』(光文社カッパビジネス、1980年)は、ベストセラーとなった。当時、本当にソ連が崩壊するはずはない、トンデモ本のたぐいだ、と思ったひとが大部分だったろう。10年経って、冷戦が終わるころには、この本のことを思い出すひとは少なかった。小室博士のすごさをみんな、わからなかったのだ。


いま蘇る、小室直樹博士の実像
小室直樹博士の生涯をふり返る『評伝 小室直樹』(上・下)(ミネルヴァ書房、2018年9月刊)が、このほど出版された。

著者は、村上篤直氏。長年、小室博士を心の師としてきた弁護士である。村上氏は小室博士と面識がない。死ぬしかないとまで思い詰めた若い時代、博士の著作と出会って、命を救われたという。

以来、小室博士の著書や論文を、どんな小さなものまで追い求め、リストにして、「小室直樹文献目録」としてウェブで公開してきた。あわせて、「小室直樹博士略年譜」も執筆し、公開した。

どちらも、小室博士を記念してまとめられた『小室直樹の世界』(橋爪大三郎編著、ミネルヴァ書房、2013年)に収められている。これが機縁となって、版元から依頼を受け、執筆を引き受けて、小室博士を知る100名以上の関係者に4年にわたり丹念な取材を重ね、上・下巻をあわせて1500ページにのぼる大作を書き上げた。

面白い。読み始めると、止まらない。小室博士が血肉をえて、ページのなかを躍動している。発売以来、多くの読者に迎えられている。小室博士を知らない、もっともっと多くの読者に読まれてほしいと願う。


伝統右翼の系譜につながる意外な事実
私も知らなかった事実が多い。

いちばん重要なのは、小室博士を指導した経済学者の市村真一氏が、右翼思想の持ち主で、平泉澄氏の薫陶を受けていたことだろう。

戦前戦中の、皇国思想の権威だった平泉氏は、戦後、私塾を開いていた。小室博士は市村氏を通してその塾の塾生となり、研鑽を積んでいた。小室博士が「右翼」であるとは、なんとなく知ってはいたが、ここまで本格的だとは気がつかなかった。

全共闘くずれの「左翼」学生の私を、ゼミで親身に指導してくれた。政治的立場と学問とは、無関係だと態度で示してくれた。

これを踏まえると、小室博士と山本七平氏の邂逅も、必然的だと理解できる。

何かの機会に同席した小室博士と山本氏は、浅見絅斎の『靖献遺言』が重要だという認識で一致し、意気投合した。『靖献遺言』は、勤皇の志士のバイブルとも言える、闇斎学派の重要著作である。その後二人は交流を重ね、「日本教」をテーマに対談本も出している。

尊皇思想をベースにする小室博士と、キリスト教をベースにする山本氏とは、互いを尊敬し、同志とも言えるつながりを持ち、終生交わりを重ねた。戦後日本の病根を、宗教と社会科学のメスでえぐり出そうとする使命感に、共通するものがあった。

戦後日本の知識界で、小室直樹博士は特別の位置を占めた。その欠落は、埋められないだろう。小室博士への評価はまだ、十分でない。

小室博士の学問と思想を理解することは、日本人が戦後という時代をみつめ、その先へ進むための足場になる。平成という時代にひと区切りがつくこの時期に、小室博士の生涯をふり返る評伝が刊行されたことを喜びたい。


うちのコレクション。


小室直樹文献目録』 http://www.interq.or.jp/sun/atsun/komuro/
『2011年04月18日(Mon) 「小室直樹の学問と思想」』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20110418
『2010年09月29日(Wed) 追悼 小室直樹』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20100929
『2010年09月28日(Tue) 天才小室直樹、逝く』http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20100928

 自然科学の世界のことはよく知らないが、現在の日本の社会・人文系の学者の中で天才的な人を挙げるとすれば、小室直樹氏が第一に思い浮かぶ。彼の履歴が独特である。まず数学者として出発した。多くの社会・人文系の学者が数学嫌いであるのと反対である。その数学を生かしうる近代経済学に入り、そこから社会学・法学の方面に進んできた。背景や人柄はまるで違うが私はハイエク先生の生まれた道を思い合わせる。ハイエク先生も初めは数学を使う経済学者だったが、次第に社会学や法学に関心を向けられ、晩年は法哲学者、あるいは哲学者の風貌があり、また仕事もその分野のものだった。小室氏もその方向に進まれるような予感がする。
 一般読者の前に姿を現した最初の時から、小室氏は穎脱(えいだつ)であった。袋に入れた錐(きり)の先は、突き抜けて袋の外に抜け出ずにはおれないように、断然頭角を現さざるをえないような特異な才能の人を穎脱と形容するが、小室氏は正に穎脱の人であり、逆に私はこの漢字を見ると小室氏の顔が浮かんでくる。
 東京裁判史観の戦後の風潮の中で小室氏は『新戦争論』を書き、国際法は戦争から始まること、また戦争は国際法的に合法であることを喝破したが、そのような法学者が戦後の日本にほかにいたであろうか。健康な人だけを研究して医学ができるわけはない。平和の状態の研究だけから国際法ができるわけはない。病人を研究して医学ができ、戦争や紛争を研究して国際法ができる。この世界の常識が戦後の日本の法律学者や政治家に欠けていた。「平和を叫べば平和が来る」というのは「念力主義」にすぎないと喝破したのも小室氏である。
 また戦後の日本の官民が挙げて神聖視していた国連(The Unied Nations)が、戦争中の連合国(United Nations)と同じことを指摘したのも私の知る限り小室氏が最初の人である。そして国連憲章の中には日本に対する「敵国条項」があって、それは潜在的に日本に危険であることを指摘したのも私の知る限り小室氏が初めてである。今日ではこのことをあたかも自分が前から知っていたかのごとく言ったり、書いたりする政治学者や物書きが多いが、私には何だか笑止に思われる。また、ソ連の崩壊を本にして出したのも日本では(外国は広いからどこかにあるかもしれない)小室氏が初めてである。

── 渡部昇一(『自らの国を潰すのか』)

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