教育勅語の普遍的価値
「【主張】教育勅語 普遍的価値を理解したい」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/column/news/181008/clm1810080002-n1.html
明治23年に発布され徳目を示した教育勅語をめぐる柴山昌彦文部科学相の発言に野党などから「戦前回帰につながる」といった反発が出ている。編纂(へんさん)過程や内容を無視した批判である。
まず原典をよく読み込んで、時代を超えて流れる教育の理念を理解してもらいたい。不当な評価こそ見直すべきだ。
柴山氏は2日夜、就任後の会見で教育勅語に対する見解を問われた。現代風に解釈したり、アレンジした形で道徳などに使える普遍性を持っている部分もある、と述べた。どこが問題なのか。
平成26年、当時の前川喜平初等中等教育局長が参院委員会で「教育勅語の中には今日でも通用するような内容も含まれており、これらの点に注目して活用することは考えられる」と答弁している。
政府は昨年、「憲法や教育基本法などに反しないような形で、教材として用いることまでは否定しない」との答弁書を閣議決定した。「教育の唯一の根本」とするような指導は不適切だとの従来の考えも示している。
柴山氏は5日の閣議後会見で、教育勅語を復活させる意図はないと改めて説明したが、当初から政府見解を踏襲して答えたにすぎない。揚げ足を取って騒ぎ立てる問題ではなかろう。
教育勅語が編纂された当時の時代背景を改めて知ってほしい。
西洋思想などが急激に入る変化の中で当時の法制局長官、井上毅らが起草を進めた。特定の宗教思想にとらわれず、近代立憲主義に基づく市民倫理や伝統的徳目が調和するよう苦心されている。
天皇中心の国家観を支え、軍国教育復活につながる、などの批判も的外れだ。「朕惟(ちんおも)フニ」と、明治天皇が国民に語る形で、歴代天皇と国民が心を一つに祖先が築いた道徳を守ってきたと日本の国柄に触れながら、それが教育の源だと説いている。
「一旦緩急アレハ」から続く文言は、国の危機にあたっては国民それぞれの立場で協力する当然の責務をうたっている。
昭和23年、国会で排除・失効の決議がされたが、当時は占領下で連合国軍総司令部(GHQ)の意向に従わざるを得なかった事情がある。根底にある信義などの徳目は今こそ問われている。排除するのは多様な視点が求められる現代の教育にも反しよう。
勅語には人類普遍の真理、12の徳目が書いてある。
- 父母ニ孝ニ(【孝行】-親に孝養を尽くしましょう)
- 兄弟ニ友ニ(【友愛】-兄弟・姉妹は仲良くしましょう)
- 夫婦相和シ(【夫婦の和】-夫婦は互いに分を守り仲睦まじくしましょう)
- 朋友相信ジ(【朋友の信】-友だちはお互いに信じ合いましょう)
- 恭倹己レヲ持シ(【謙遜】-自分の言動を慎みましょう)
- 博愛衆ニ及ボシ(【博愛】-広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう)
- 学ヲ修メ業ヲ習ヒ(【修業習学】-勉学に励み職業を身につけましょう)
- 以テ智能ヲ啓発シ(【知能啓発】-知識を養い才能を伸ばしましょう)
- 徳器ヲ成就シ(【徳器成就】-人格の向上につとめましょう)
- 進デ公益ヲ広メ世務ヲ開キ(【公益世務】-広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)
- 常ニ国憲ヲ重ジ国法ニ遵ヒ(【遵法】-法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう)
- 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ(【義勇】-国に危機があったなら正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう)
『教育勅語』(明治神宮) http://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.html
『教育勅語を書いてみましょう』(明治神宮) http://www.meijijingu.or.jp/kyouikuchokugo/pc/
『教育勅語 特集ページ』(北海道神社庁) http://www.hokkaidojinjacho.jp/top.html
『教育勅語 原文PDF』(北海道神社庁)http://www.hokkaidojinjacho.jp/kchokugo.pdf (PDF)
そもそも教育勅語は、その徳目を誰かが新しく考え出したものではなく、昔から日本人の道徳規範であったものを、あらためて勅語の形にまとめたものであるから、これに違和感を持つ日本人はおらず、大いに歓迎されて、親も子供に暗記させていたのであった。それは憲法の方がよそよそしく、一般の人々には関係ないものと考えられていたのとは対照的であったといえよう。それがなくなるということは、日本人の意識から徳目がなくなるということに連なるのだ。
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哲学的対話への誘い
「誰も教えてくれない『考える力』の学び方――哲学的対話への誘い」(ハーバー・ビジネス・オンライン)
→ https://hbol.jp/175528
考える方法は誰も学んでいない
昨今、世の中では、教育の現場でもビジネスの世界でも、「考える力」を身につけなければならないと言われている。変化が激しい現代、これまで出会ったことのない事態に対処するには、臨機応変に考え、判断できなければいけないらしい。他方で、最近の若い人は考える力が弱いという声も、相変わらずよく聞こえてくる。けれども、意外に思うかもしれないが、実は私たちはみんな、考える方法をまったくと言っていいほど学んでいない。これは最近の話ではなく、ずっと以前からそうだった。したがって、考える力が弱いのは、イマドキの若者だけではなく、イマドキの中年も老人も、考える力の点では、みんな大差ない。
これはとても奇妙なことだ。もし、計算の仕方を教わっていないのに、計算しろと言われ、できなければ計算力がないと言われたら、誰もがその理不尽さに憤慨し、滑稽さに大笑いするだろう。だが、思考力については、なぜかこんな妙ちくりんなことがまかり通っている。いったい何なのか。
子どもに哲学を教えて気づいたこと
実を言うと、私自身、このような深刻な事態に最近まで気づいていなかった。きっかけになったのは、子どもたちに哲学を教えはじめたことである。具体的には、2012年夏、高校生を集めて哲学サマーキャンプを始めてからだ。高校生相手に、難解な専門的定義をしても仕方ない。もっとシンプルで、本質を突いた説明を……ということで、思いついたのが「哲学とは、問い、考え、語ることである」というものだ。
ここで重要なのは、「問うこと」である。私たちは「問い」があってはじめて考えることができる。ただぼんやり考えを巡らせるとか、悩むのではなく、もっと能動的に考えるには、問うことに意識的でなければならない。
思考の質は、問いの質によって決まる。考えが漠然としているのは、問いが漠然としているからだ。具体的に考えるには、具体的に問わねばならない。私たちは問うことで考え、考えを言葉にすることで、それを明確にすることができる。それを積み重ねることで、思考を展開できるのだ。
察しのいい人はこのあたりで、これは「考える」ことと何が違うのか、と疑問に思うだろう。そう、哲学とは「考えること」そのものに関わり、突き詰める学問だと言ってもいい。だが、この一見陳腐であたりさわりがないように見える哲学の定義から、意外なことに気づいた。
そもそも私たちは、いつ、どこで「問う」機会をもつのだろうか。どのように問うのか、「問う方法」について、私たちはいったいどこでどうやって学ぶのだろうか。
少なくとも、学校では教わらない。会社でも教わらない。だとしたら、いったいどこで? ……探してはみるものの、思い当たらない。どうやら私たちは、どのようにして考えるのか、まったく学んでいないらしい。これは、恐ろしいことではないか。
だが、それだけではない。
子どもの哲学(Philosophy for Children:P4C)との出会い
もう一つ、「考える方法」について考える大きなきっかけになったのは、同じ2012年の夏、ハワイで「子どものための哲学(Philosophy for Children:P4C)」に出会ったことである。子どもたち十数人(場合によっては30人くらい)が輪になって、自由に話をする。「何を話してもいい」「人の言うことを否定しない」「結論が出なくてもいい」といった簡単なルールの中で、自分たちで出した問いについて一緒に話し、考える。
子どもたちは真剣な面持ちで目を輝かせながら、楽しそうに、それでいて、ときに大人でもついていくのが大変な面白くて深い議論をしていた。先の哲学の定義を広げれば、「哲学対話」もしくは「対話型の哲学」は、「問い、考え、語り、聞くこと」となる。では、これを日本でやったらどうなるんだろう?
以来、イベントをやったり、学校や地域コミュニティ、過疎の村などで対話の場を作ってきた。そこで見たのは、ハワイと同じ光景だった。そこに、国や文化、世代、性別、職業、学歴の違いは、ほとんどなかった。誰にとっても、考えるのは楽しいし、楽しくやれば、誰でも考える力を身につけていける。
そう思うようになってから、世の中を見て愕然とした。
語る自由がなければ考える自由もない
哲学対話でもっとも重要なのは、「何を言ってもいい」、そして「何を問うてもいい」ということだ。そのために「他の人の言うことを否定しない」ことも求められる。問いと発言の自由がなければ、思考の自由もない。自由にものが考えられないところでは、常識や偏見、固定観念にとらわれたままである。ところが、そういう目で見ると、世の中には、自由にものが言える場がほとんどない。
「こんなことを言ったらバカにされるのではないか」、「こんなことみんな分かってるんじゃないか」、「こんなことはつまらないんじゃないか」――――そういう不安、恐れ、羞恥心から、みんな言いたいこと、疑問に思ったことを言わないようにしている。学校も会社も、あらゆる人間関係も、こうした気持ちを強化し、植え付けようとする。
だから哲学対話では、「人の言うことを否定しない」ということを明確なルールとしている。そうしてどんな問いも、どんな発現も許容する。これはみんなが気持ちよく話すためではない。自由に考え、考える自由を手に入れるためである。そしてその自由の中ではじめて私たちは考える力を手にするのだ。
そういう場である哲学対話は、最近はいろんなところで開かれている。ネットで調べれば、見つかる。ぜひ体験してほしい。
考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 (幻冬舎新書)
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哲学の巫女、かく語りき。
考えることは、悩むことではない。
世の人、決定的に、ここを間違えている。人が悩むのは、きちんと考えていないからにほかならず、きちんと考えることができるなら、人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。なぜなら、悩むよりも先に、悩まれている事柄の「何であるか」、が考えられていなければならないからである。「わからないこと」を悩むことはできない。「わからない」は考えられるべきである。ところで、「人生をいかに生くべきか」と悩んでいるあなた、あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか。
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明治の豊かな言論を取り戻せ
「【正論】明治の豊かな言論を取り戻せ 日本大学教授・先崎彰容」(産経新聞)
→ http://www.sankei.com/column/news/181004/clm1810040004-n1.html
≪人格攻撃が先鋭化する日本≫
先日、筆者はある座談会に出席した。「近代日本一五〇年」をめぐり、保守主義の立場から意見を述べるよう依頼を受けたのである。昨今の政治状況は「愛国VS左翼」「保守・自民党VSリベラル・立憲民主党」のような、極端な二項対立にはまり込んでいる。結果、内政外交に課題が山積であるにもかかわらず、些末(さまつ)な人格攻撃がマスコミをにぎわしている。北朝鮮の動きを注視せねばならないときに、トップニュースが性的不祥事で埋め尽くされている。
こうした「1億総週刊誌化」した現状では、世の中の出来事を、善悪で明瞭に腑分けし、「悪い」奴をやり玉にあげることばかりに時間が費やされる。貧困な言葉が空中戦をくり広げている現状を、少しでも俯瞰(ふかん)してみたい。こうした思いが、明治維新から150年という節目も意識し、座談会を組んだ趣旨だと聞かされていた。
この企画趣旨を聞いたとき、筆者にはやるべきことが、すぐさま了解できた。明治期の保守思想がもつ可能性をしっかりと主張する。そのことで現代社会の硬直しやせ細った言論空間に風穴をあける、という役割である。本稿では座談会で言い漏らしたことも含めて、明治人たちの豊饒(ほうじょう)な言葉の海を再現してみることにしよう。
≪違和感唱えた谷干城の意見書≫
ふつう私たちは明治初期を「明治藩閥政府VS自由民権運動」という図式で教えられる。しかしこれが全くの間違いなのだ。藩閥政府が推し進めたのは、言うまでもなく「西欧化」である。具体的には法治主義の徹底であり、経済における自由主義の導入、そして鹿鳴館に代表される文明化であった。
これら3つの政策がなぜ問題だったのかといえば、庶民生活の実態に全く即していなかったからである。自由主義経済化と松方デフレは、まるで今日のグローバル経済がそうであるように、個人を直接、世界経済にさらすことになった。大げさに言えば、明治開国によって、日本人は地域共同体で営まれていた小さな経済圏から引きはがされ、一人一人が、世界経済の大きなうねりに直面することを強いられたのである。
経済ばかりではない。現実を無視した法治主義が、明治の日本人を困惑に陥れていた。たとえば明治12年、谷干城は「陸軍恩給令改正意見」を政府に提出する。これは、戦死者遺族に対し、妻子など家族に恩給を与える新政府の対応を批判したもので、これまでの伝統をふまえるならば、父母に対して恩給を支給すべきだとするものだった。つまり、日本の伝統と慣習を無視した恩給制度を批判し、実態にあわせるべきだと主張したわけだ。日々翻訳される法律を、現実を無視したまま適用を焦る新政府に対し、違和感を唱えた一例が、谷干城の意見書なのである。
鹿鳴館の欧化主義に対する感情的反発は、なにも西欧諸国を敵視したからでなかった。実際に、日々の生活習慣自体が壊されていたからこそ、人びとは鹿鳴館に批判の眼をむけたのである。
≪保守的ゆえに政府を批判する≫
自由民権運動は、その象徴的一例だ。だが筆者が注目したのは、もう一つの批判の系譜である。それが元田永孚(もとだ・ながざね)や陸羯南(くがかつなん)などの保守主義者たちであった。彼らの特徴は、政府の法治主義に対する「道徳」の優位、そして伝統の重視であった。
たとえば、元田は道徳を重視したが、それは道徳がもつ世界大の「普遍性」を強調するためだった。道徳は普遍的な倫理であり、それを体現しているのは日本では天皇である。つまり天皇=道徳の体現者と考える元田は、天皇と藩閥政府を明確に区別した。そして、天皇VS藩閥政府という立場から政府批判を行ったのである。その批判は、急激すぎる欧化を是正すべし、というものであった。つまり保守主義的なのである。
一方の自由民権運動が、西欧由来の民権概念によって、激しく藩閥政府と対立したことは誰でも知っている。しかし明治期の日本には、藩閥政府VS自由民権とは異なる、もう一つの反政府的な立場が存在したこと、それは天皇と保守を標榜(ひょうぼう)していたことは今日、完全に忘れられている。
しかも彼らは自由民権とは異なり、政府と対立しつつも藩閥政府の破壊・革命はすべきでない、と考えていた。なぜならこれ以上、国政が混乱することは、諸外国に内政干渉する隙を与えてしまうからである。
だとすれば、元田や陸羯南の保守主義は、これまでの教科書的な「明治藩閥政府VS自由民権運動」とは異なる立場ということになるだろう。保守的であるがゆえに、政府を批判する立場がある。つまり二項対立を超えた第三項があるということである。
さて些末な人格攻撃に明け暮れる平成最後の日本に、この明治の話は、遠い時代の話なのだろうか。筆者にはそうは思えない。むしろ150年前の言論空間の方が硬直性を免れ、さまざまな立場の言論が生き生きと活動を展開していたように思えるのである。
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翁に曰く、
してみれば言論の自由とは、大ぜいと同じことを言う自由である。大ぜいが罵るとき、共に罵る自由、罵らないものをうながして罵る自由、うながしてもきかなければ、きかないものを村八分にする自由である。
雪虫
『北海道に初雪を知らせる小さな妖精「雪虫」って知ってる?』(NAVER まとめ) http://matome.naver.jp/odai/2141282094129580701
『雪虫(ユキムシ)、雪の妖精 』(北海道ファンマガジン) http://pucchi.net/hokkaido/snow/life01.php
『雪虫 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E8%99%AB
私に見える冬がある
私に見えない冬がある
それをあなたが指し示す
あなたに見える雪がある
あなたに見えない雪がある
それを私が受けとめる
補いあってゆけるなら 2人歩きは寒くない
なのにあなたを補える誰かを知って 私泣く
私に読める文字がある
私に読めない文字がある
それをあなたが口ずさむ
あなたに消せる傷がある
あなたに消せない傷がある
それを私が抱き埋(うず)む
補いあえばいいものを 2人歩きはおぼつかぬ
あなたの為になるかしら答えきれずに 私泣く
私の勇気は雪虫で
私の自信は雪虫で
有りか無きかの夕間暮(ゆうまぐ)れ
それでもどうか傍(かたわ)らに 私を置いてくれたなら
ある日敢えなく飛ばされて 風を知らせてあげるのに
それでもどうか傍らに 私を置いてくれたなら
Glenn Gould
グレン・グールド (1932年9月25日 - 1982年10月4日)
『グレン・グールド著作集 - 松岡正剛の千夜千冊』 http://1000ya.isis.ne.jp/0980.html
『映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」』 http://www.uplink.co.jp/gould/
『グレン・グールド | SonyMusic』 http://www.sonymusic.co.jp/artist/GlennGould/
芸術の目的とは、一時的にアドレナリンを分泌させることではなく、生涯をかけて徐々に脅威と静穏の状態を作り上げていくことである。
── Glenn Herbert Gould
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グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独 [Blu-ray]
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キャプテン-プレイボール
「あなたにとっての思い出の『野球マンガ』は何ですか?」(GetNavi web)
→ https://getnavi.jp/book/300425/
一昔前。スポーツといえば「野球」だった。僕は昭和46年生まれ。へそ曲がりな父親の影響で子どもの頃から阪神タイガースのファンになっており、1985年の日本一を中学2年のときに体験した。
僕が一番好きな野球マンガは「キャプテン」
僕と同じくらいの年代の男子は、7〜8割くらいが野球をやっていたか、野球が好きだったように思う。というか、当時はテレビで巨人戦が毎日放送されており、野球に触れる機会が多かったのだ。もちろん少年野球チームでプレイしている子どももいたし、そうでなくても学校の休み時間や家に帰ってからみんなで野球をするというのも割と普通だった。
そして、1970年代から1980年代にかけては、野球マンガが大ブームだったと思う。当時の野球マンガ御三家といえば、「巨人の星」「ドカベン」「キャプテン」だろう。そのなかでも、僕が一番好きだったのが「キャプテン」だ。
谷口キャプテンが21世紀に蘇る
「キャプテン」は、1972年から1979年まで月刊少年ジャンプ(連載当時は別冊少年ジャンプ)で連載されていた中学野球のマンガだ。名門中学の野球部で補欠だった谷口タカオが、勘違いで墨谷二中のキャプテンに指名され、そこから猛特訓して成長していくという物語だ。ただそれだけではない。「キャプテン」の特徴は、谷口卒業後もストーリーが続き、丸井、イガラシ、近藤という歴代キャプテンを描いている点だ。
同時期、卒業した谷口の高校入学後を描く「プレイボール」という作品もある。僕は数ある野球マンガのなかでも、「キャプテン」と「プレイボール」をバイブルとして、年に1回くらい読み返している。
「キャプテン」「プレイボール」とも、作者のちばあきおの急逝により途中で終わっている感じになっている(連載上は終わっているが物語は終わっていない)。そこで現在、「おれはキャプテン」の作画や「グラゼニ」の原作者(森高夕次名義)であるコージィ城倉が、プレイボールの続編となる「プレイボール2」を執筆。その後の谷口をはじめ、丸井やイガラシなども登場している。
「キャプテン」は本当は複数の運動部が出てくるはずだった
そんな「キャプテン」「プレイボール」のガイドブックが『キャプテン&プレイボール パーフェクトBOOK』(アニメ事業室・編/学研プラス・刊)だ。コージィ城倉のインタビューをはじめ、実兄であるちばてつや氏や、ゆかりのあるマンガ家などのインタビューを掲載。また、秘蔵のカラー原画や扉絵の解説などもあり、読み応え十分の一冊となっている。
そのなかに、キャプテンである谷口のモデルとなった担当編集者、谷口忠夫氏のインタビューが掲載されている。なぜ「キャプテン」が一人のキャプテンを描かず、歴代キャプテンを追っていくストーリーになったのか、その理由が語られていた。あきおさん、当初は、様々な運動部の色々なキャプテン像を描きたいという構想があったようです。しかし、谷口くんが人気だったこともあり、舞台となるクラブは変えずに野球部ひとつに絞ってキャプテンを変えていくことにしたんです。
(『キャプテン&プレイボール パーフェクトBOOK』より引用)
結果、「キャプテン」では墨谷二中を舞台に4人のキャプテンを描くストーリーに。また「プレイボール」では谷口を主人公にした、王道の野球マンガの体裁となった。ちなみに、墨谷二中の歴代キャプテンでは、イガラシが好きだ。谷口が3年生のときに1年として入部。結果、3年間フルに描かれたのはイガラシのみ。非常にクールな性格ながら、ここぞというときには力を発揮し、問題児であった近藤をなんとかコントロールしてエースにしていくという指導者としての才にも長けており、子どもながら「イガラシはすごいやつだ」と感じていた。
今おもしろい野球マンガは「おおきく振りかぶって」
「キャプテン」「プレーボール」より後の世代になると、「メジャー」や「ダイヤのA」などが人気だろう。プロ野球選手になかにもこれらのマンガに影響されたという人も多い。最近の野球マンガでおもしろいなと思っているのが「おおきく振りかぶって」だ。とにかく細かい。試合の描写では1球ごとに打者、投手、捕手、ベンチといったそれぞれの思惑が入り乱れ、細かい心理描写などが行われるため、単行本は29巻発売されているがまだマンガ内では1年経っていない。いつ終わるのやら……。
40代の男性ならば、一度は野球マンガにはまったのではないだろうか。いったい、どの野球マンガにはまっただろうか。飲み会などでそんな話をすると、あっという間に終電の時間になってしまうと思うので、気をつけよう。
『プレイボール2』(グランドジャンプ) http://grandjump.shueisha.co.jp/manga/playball2.html
何を隠そうぼくもキャプテン世代。
「努力努力」、「頑張る頑張る」
谷口くんの”影の努力”に憧れた世代です。
泣けてくる。
キャプテン&プレイボール パーフェクトBOOK (学研ムック)
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一日一言「親子の愛」
十月二日 親子の愛
安政二年(西暦一八五五年)の今日、江戸に大地震が起こり、藤田東湖は母を助けようとして、自分は圧死した。親を思う子の心にまさるものは子を思う親の心というが、お互いの思いやりがあってこそ、人間が万物の頂点に立つものとしてその姿を見ることができるもので、親子の愛は、人類の愛情の根本である。
〈明治天皇御制〉
むらぎもの心つくして報いなむ おほし立てつる親の恵を
たらちねのみ親の教あら玉の 年ふるまゝに身にぞ沁みける
松陰先生。
親思う心にまさる親心 けふのおとずれ何ときくらん
── 吉田松陰(『辞世』)
子供が親を思う心よりも、親が子供を思う心の方が勝るものだ。今日の斬首される自分をどう思うだろう。- 作者: 徳富蘇峰
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