NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「台風を放棄する」と憲法に書けば台風は日本に来なくなりますか?

「【iRONNA発】SEALDsは恋人を守らないのか 皆川豪志(産経新聞出版)」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/life/news/151111/lif1511110024-n1.html

 国会前で騒いでいたSEALDs(シールズ)の皆さんですが、テレビのニュース的にはすっかりあきられたと思っていたら、民主党共産党が「今後も共闘したい」などと言い出しています。こんな誘いに乗って利用されるよりも、日常に戻って、まともな本の2、3冊でも読んでくれたらいいのですが。(iRONNA)

 あの騒動から1カ月以上が経ち、改めてお聞きしたいのですが、SEALDsの学生さんたちは自宅に鍵をかけているのでしょうか。「それは個別的自衛権だからかける」くらいの理屈は言ってほしいですが、例えば近所で強盗や空き巣などの物騒な事件が相次いだとします。そのとき、自治会で対策会議のようなものが開かれたとしたら、SEALDsの皆さんはどんな発言をするのでしょうか。

 と言っても、親元にいてよくわからないお子様も多いでしょうし、一人暮らしでも隣人とあいさつも交わしたこともない方も多いかもしれません。想像で結構ですが、おそらく自治会の人たちからは「警察の警備をもっと強化してほしい」とか、「自治会でも交代で見回りをしよう」なんて声があがると思います。そのとき、SEALDsの学生さんたちは胸を張ってこう答えなくてはなりません。

「警察官は強盗と乱闘になったら命を落とす危険性があるので来るべきではない」「見回り中に自分が事件に巻き込まれる可能性があるから参加しない」

 それだけなら近所の方は、「変わった学生さんだな」「自分勝手な子だな」と苦笑するだけかもしれませんが、SEALDsとしてはさらに、きっぱりとこう言わなくてはなりません。

憲法九条があるから強盗なんて来ません」

 さあ、いよいよ周囲のみなさんは、ドン引きです。大変な奴が近所に住んでいたことがわかり、強盗よりも不気味に思われるでしょう。それでもSEALDsは自らの思想信条にのっとり、大人たちに負けてはいけません。ラップ調で太鼓を叩きながら、ボルテージを上げてください。「ゴートー反対!ケンポー守れ!キュージョー守れ!」…。

 もう少し、集団的自衛権の話題に踏み込もうかと思いましたが、馬鹿らしいのでやめます。ここで自治会の人たちが話し合っているのは、「自分たちが強盗をする」という話ではなく、「強盗が来たらどうするか」という話なのですが、「説明が足りない」のかもしれません。

 「若者なのに政治に関心がある」ともてはやされたSEALDsのみなさん、気を悪くされたらごめんなさい。ただ、私はそれだけで素晴らしいとは決して思えないのです。関心を持ったら、声を上げる前にまず勉強してほしいと思います。自分たちを持ち上げてくれるマスコミや無責任な野党の意見だけでなく、関連する書籍を賛否両論含め読んでほしいのです。そして、身近な問題に置き換えて考えてほしいと思うのです。

 こんなことは無いに越したことはないのですが、例えば、あなたの彼女が、彼氏が、友達が、家族が、何の罪もないのに誰かに殺されそうになったとき、危害を加えられそうになったとき、どうするでしょうか。「誰か」というのは、戦争中であれば外国人かもしれませんし、平時であれば日本人の輩かもしれません。でも状況は同じなのです。そのとき、戦うのか、逃げるのか、だれかに助けを求めに行くのか。身近な愛する人の顔を思い浮かべて真剣に考えてほしいのです。

 それでも「憲法九条を読み上げる」と言うのなら、どうぞ読み上げてください。(皆川豪志)


「【正論】『台風を放棄する』と憲法に書けば台風が来なくなるのか? 危惧抱く教養主義の衰退 平川祐弘(東大名誉教授)」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/151102/clm1511020001-n1.html

 「台風を放棄する」と憲法に書けば、台風は日本に来なくなりますか、と田中美知太郎は問うた。世間には「戦争を放棄する」と憲法9条に書いてあるから戦争がないような言辞を弄する者がいる。田中は戦争被害者で焼夷弾で焼かれた顔は恐ろしかったが、そう問うことで蒙を啓く発言には笑いと真実があった。


 《今も通じる竹山道雄の判断》

 55年前、国会前は「安保反対」で荒れた。多くの名士はデモを支持した。だが大内兵衛清水幾太郎など社会科学者の主張は傾向的だったものだから今では古びて読むにたえない。ところがギリシャ哲学者、田中の発言は古びない。今年の国会でも維新の党の議員が「台風放棄」説を引用した。

 興味あるのは論壇名士の賞味期限だ。人民民主主義を擁護した社会科学者の期限はとうに切れたが、田中は違う。複数の外国語に通じた人文学者の常識-プラトンの対話を講ずる一見、浮世離れの田中の論壇時評のコモン・センスを私は信用した。

 またドイツ語でマルクスを読んで有難がる社会科学者よりも、東独からの逃亡者と生きたドイツ語で会話する竹山道雄の判断の方を信用した。私はいま竹山の往年の新聞コラムを本に編んでいるが、その安保騒動批判は今でも通用する。「米軍がいると戦争が近づく、いなければ遠のく-、多くの人がこう考えている。しかしあべこべに、米軍がいると戦争が遠のくが、いなければ近づく」と考えるのが竹山だった。

 習近平中国の露骨な膨張主義に直面して日本人の考えはいまや後者の方に傾いた。半世紀前は新保守主義とか教養主義とか揶揄された田中や竹山だが、どうしてその判断は捨てたものではない。

 そんな大正教養主義世代を敬重するだけに、日本の高等教育における教養主義の衰退に危惧の念を抱く。かくいう私はlater specializationを良しとした。ところが近年、文部科学省はそんな専門化への特化を先延ばしする教養主義を排し、早く結果の出る専門主義を推している。

 教養教育批判が出るについては、従来の教養部に問題もあったろう。しかし私は教養主義を奉じた旧制高校で学び、新制大学では教養学部の教養学科を出、教養学士の学位号を持つ者だ。おかげで80代でも仏語で本を出している。恩恵を感じるだけに教養主義の復権を唱えずにはいられない。私が学際的につきあった人は理系社会系を問わず詩文の教養があり外国語が達者な人が多かった。外国人と食卓で豊かな会話もできぬような専門家では寂しいではないか。

 では21世紀の要請に応え得る教養人の形成は具体的にどうするか、その一石二鳥の語学教育法を披露したい。人文主義的な教養教育の基礎は外国語古典の講読で、徳川時代は漢文、明治・大正・昭和前期は高校では独仏の短編などを習った。西洋では以前はラテン・ギリシャhumanites classiquesを習ったが、近年は近代語古典 humanites modernesへ重点が移行した。

 英語の読み書き話しの力はグローバル人材に必要だが、問題は有限の時間を効率的に使うこと。そのために英語とともに国際関係・歴史など別の科目も同時に学ぶこと。教材にルーズベルトの対日宣戦布告、チャーチルの演説、ポツダム宣言等の英文も用いれば外国が日本をどう見たかもわかる。

 そして日本側の非とともに理のあるところも考えさせ、外国語による自己主張も訓練せねばならない。そのためには日本人であることに自信のある人が望ましい。


 《「複眼の士」養成が大学の任務》

 『源氏物語』を原文とウェイリー英訳とともに講読すれば、外国語を学びながら自己の日本人性にも目覚める。平安朝の洗練を知れば日本人として妙な卑下はしないだろう。もっともこんな授業は大学院でも無理かもしれないが。

 しかし、文化的無国籍者でなく、世界に通用する日本人を育てることは国防上からも大切だ。そんな日本と外国に二本の足をおろして活躍できる人を育てることこそが教養教育の王道で、「複眼の士」を養成することが大学の任務だろう。

 だが今の日本では餅は餅屋式の専門分化の考えが邪魔立てし、一人の教師が『源氏』の原文も英訳も教えるなどできない相談と思いこんでいる。ハーンの英語怪談の日本語原拠を調べることすら英文学の専門の枠外だと思っていたのだ。専門白痴は困ったものだ。これから先は、主専攻とともに副専攻を自覚させることが肝心だ。

 しかし安倍晋三首相の70年談話なら一人の教師で原文も英訳も教えることはできるだろう。丁寧に読めば問題点もある。事変、侵略、戦争について日本語では主語が不特定多数だが、英文では主語はわれわれ日本で「二度と武力の威嚇はしない」と誓うのだから日本は侵略したと読める、などと指摘する人も出てこよう。そうした文法的・歴史的かつ政治的問題を学生と議論することこそ大切だ。

ロゴスとイデア (文春学藝ライブラリー)

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哲学初歩 (岩波現代文庫)

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昭和の精神史 (講談社学術文庫 (696))

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ビルマの竪琴 (新潮文庫)

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日本人に生まれて、まあよかった (新潮新書)

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竹山道雄と昭和の時代

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