NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

『小林秀雄の警告』

「お化けや霊の話をまじめに語るのは、ただの反知性主義なのか? 見えるものは見えると書いた小林秀雄」(現代ビジネス)
 → https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58122

知識人はお化けなんて信じない。そう思う人にとって、あの小林秀雄が霊的な現象について書いた文章を読むと驚愕するだろう。小林は亡くなった母親のイメージに、行く手に見えた蛍の光を重ねた。当たり前だったことを当たり前に正直に書けばそうなると小林は書いた。そのように現象そのものを具体的に見ることを、言語化や数値化が妨げてきたと、『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか? (講談社+α新書)』の著者・適菜収氏は言う。その結果、私たちはどんな間違いを犯しているのか? 本書の抜粋をお届けしよう。

死ななかったのは母が守ってくれたから
昭和二一年の秋、小林は国電水道橋駅のプラットホームから落下して死にかけた。神田の「セレネ」という居酒屋で酒を飲み、そこで一升瓶を譲ってもらい、水道橋駅に出た。当時、駅のプラットホームの壁は、鉄骨に丸太を括っただけの粗末なものだった。小林はその丸太の隙間から一升瓶を抱えたまま一〇メートル下の空き地に転落した。終戦直後なので、周りには鉄材が積まれていた。

知らせを受けた女房の喜代美は、命は助かったとしても重傷を負ったと思い、目の前が暗くなった。数日後に妹の潤子が見舞いに行くと、小林は元気で寝床の上に座っていたという。「よかったわね。酔っていたからかえってよかったのかしら」と潤子が言うと、小林は「そうかもしれないが、おれにはおふくろが守ってくれたとしか思えないね」と真面目に答えたそうな。

小林は中断したベルグソン論「感想」で終戦の翌年に死んだ母親について書いている。

母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。(中略)仏に上げる蠟燭(ろうそく)を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷(おうぎがやつ)の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。──「感想」

「おっかさんという蛍が飛んでいた」
小林は「近代人」である読者に説明する。読者はこのエピソードを感傷だと一笑に付すことができるだろう、でも、自分だって「感傷にすぎない」と考えることはできる、と。

だが、困った事がある。実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである。私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異って実によく光るとか、そんな事を少しも考えはしなかった。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何も彼も当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。──「感想」

「門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた」という話は、近代人は理解できない。「おっかさん」は蛍ではないからだ。だから、蛍の光と母親の魂のイメージを心の中で重ね合わせたのだと解釈する。

私にも似たような体験がある。一九歳の頃、新宿区早稲田から落合に引っ越したばかりで、電話線はまだ引いていなかった。荷物を押し分けるようにして布団を敷き、寝た。その晩、母方の祖母が夢に出てきた。それまで祖母が夢に出てくるようなことはなかったので、「亡くなったのかもしれないな」と夢の中で思った。


合理的な説明がないと落ち着かない
朝起きて、渋谷に向かった。その日はアルバイトの初日だった。夕方、アパートに戻ると、ドアに電報が挟まっていた。祖母が急死したという。「胸が痛い」と言うので病院に連れて行ったら、息を引き取ったとのこと。だから、死の予兆があったわけではない。

その晩、私は山梨の実家に帰った。翌日、母と叔母に夢の話をした。すると彼女たちは「おばあちゃんがお別れにきたのね」と普通に言った。

だから、どうだこうだと言いたいのではない。実際にこういうことがあったというだけの話である。小林が言っていることも同じだ。

しかし、それでは納得しない人たちがいる。合理的な説明がないと落ち着かないのだ。このあたりの話を民俗学者柳田國男ベルグソンに絡めて考えてみる。

小林は柳田の学問についてこう語る。

例えば、諸君は、死んだおばあさんを、なつかしく思い出すことがあるでしょう。その時、諸君の心に、おばあさんの魂は何処からか、諸君のところにやって来るではないか。これは昔の人がしかと体験していた事です。それは生活の苦労と同じくらい彼等には平凡なことで、又同じように、真実なことだった。それが信じられなければ、柳田さんの学問はなかったというところが大事なのです。──「信ずることと知ること」

小林は柳田が八三歳のときに口述した『故郷七十年』という本の中にあるエピソードを紹介する。

柳田は一四歳のとき、茨城県の布川にある長兄の家に一人で預けられていた。隣には旧家があり、たくさんの蔵書があった。柳田は病気で学校に行けなかったので、毎日そこで本ばかり読んでいた。
その旧家の庭に石でつくった小さな祠(ほこら)があった。そこには死んだおばあさんが祀られているという。

柳田は祠の中が見たくなった。そして、ある日、思い切って石の扉を開けてしまう。中には、握りこぶしくらいの蠟石が納まっていた。


昼間に見えるはずのない星が見えた
実に美しい珠を見たと思った瞬間、奇妙な感じに襲われ、そこに座り込んでしまい、ふと空を見上げた。よく晴れた春の空で、真っ青な空に数十の星がきらめくのが見えた。昼間に星が見えるはずがないことは知っていた。けれども、その奇妙な昂奮はどうしてもとれない。その時鵯(ひよどり)が高空で、ピイッと鳴いた。それを聞いた柳田は我に返った。

そこで柳田は言う。もしも、鵯が鳴かなかったら、自分は発狂していただろうと。

小林はこの話を読んで感動した。そして柳田という人間がわかったと感じた。柳田の感受性が、彼の学問のうちで大きな役割を果たしているのだと。

柳田の弟子たちは、彼の学問の実証的方法は受け継いだが、柳田の感受性まで引き継ぐわけにはいかなかった。だから、小林は「柳田の学問には、柳田の死とともに死ななければならないものがあった」と感じたのだ。

柳田は自分が経験したことを書いた。そこには解釈の余地はない。見たものは見たのである。小林は言う。


お化けの話

今日の一般の人々に、お化けの話をまじめに訊ねても、まじめな答えは決して返って来ない。にやりと笑われるだけだ、と柳田さんは書いているが、これは鋭敏な表現でして、この笑いには、お化けの話に対して、現代人がとっている曖昧な態度と言うよりも不真面目な態度を、端的に現していると、柳田さんは見ているのです。お化けの話を、何故真面目に扱わねばならないかという柳田さんの考えは、其処には、これを信ずるか、疑うかという各人の生活上の具体的経験が関係して来るからだという所にありました。──「信ずることと知ること」

近代人はお化けを排除する。迷信など受け容れない。しかし、どこから来るかわからない恐怖に襲われることはなくならない。

お化けの話となると、にやりと笑うのだが、実はその笑いにしても、何処からやって来るのか、笑う当人には判っていないではないか。という事は、追っぱらっても、追っぱらっても、逃げて行くだけのお化けは、追っぱらった当人自身の心の奥底に逃げ込んで、その不安と化するのである。人間の魂の構造上、そういう事になる。──「信ずることと知ること」

近代人は、言葉で説明できないことがあると笑ってごまかす。神や霊に関してもニヤニヤしながら語る。不安だし、どこか後ろめたいのです。


念力で遠い場所の出来事を直接見る
ベルグソンがある大きな会議に出席しているときに、参加者の女性がフランスの高名な医者に向かって次のような話をした。

女性の夫は遠い戦場で戦死した。女性はそのときパリにいたが、ちょうどその時刻に夫が死んだ夢を見た。夫をとりまいている数人の兵士の顔まで見た。後で調べてみると、夫は夢で見た通りの恰好で、周りを数人の同僚の兵士に取りかこまれて死んでいた。

ベルグソンはこう考えた。これを夫人が頭の中に勝手に描き出したと考えるのは難しい。どんなにたくさんの人の顔を描いた画家でも、見たこともない一人の人間の顔を想像して描き出すことはできない。よって、念力といういまだにはっきりとは知られない力によって、直接見たと仮定してみるほうがよほど自然だし、理にかなっていると。
 

しかし、高名な医者はこう言った。昔から身内の者が死んだとき、死んだ知らせを受け取ったという人は非常に多い。だが、死の知らせが間違っていたという経験をした人もまた非常に多い。どうしてその一方だけに気を取られるのかと。
 
極めて論理的、合理的、理性的な説明である。

ところがそこにもう一人の若い女性がいて、医者に向かって「先生のおっしゃることは、論理的には非常に正しいけれど、何か間違っていると思います」と言った。ベルグソンはその若い女性のほうが正しいと思った。小林は言う。

ベルグソンの哲学は、直観主義とか反知性主義とか呼ばれているが、そういう哲学の一派としての呼称は、大して意味がないのでありまして、彼の思想の根幹は、哲学界からはみ出して広く一般の人心を動かした所のものにある、即ち、平たく言えば、科学思想によって危機に瀕した人格の尊厳を哲学的に救助したというところにあるのであります。人間の内面性の擁護、観察によって外部に捕えた真理を、内観によって、生きる緊張の裡に奪回するという処にあった。──「表現について」


現象の具体性に目を瞑るのが科学か?
学者は現象の具体性に目を瞑ってしまう。医者は夫人が見た夢の話を、本当にそのときに夫は死んだのか、そうではないのかという問題に変えてしまう。

ベルグソンが言う「直観」とは、本能や感情に従ってものを見ることではない。その逆だ。普通の見方ではこぼれおちてしまうものを反省と熟慮により見落とさないように努力することである。小林は言う。

なるほど科学は経験というものを尊重している。しかし経験科学と言う場合の経験というものは、科学者の経験であって、私達の経験ではない。(中略)私達が、生活の上で行なっている広大な経験の領域を、合理的経験だけに絞った。観察や実験の方法をとり上げ、これを計量というただ一つの点に集中させた、そういう狭い道を一と筋に行ったがために、近代科学は非常な発達を実現出来た。近代科学はどの部門でも、つまるところ、その理想として数学を目指している。──「信ずることと知ること」

近代科学の本質は計量を目指すが、精神の本質は計量を許さぬところにある。ベルグソンは、常識に従った。常識の感じているところへ、決定的な光を当ててみる事はできないかと考えたと小林は言う。


概念の暴走
「個別のもの、些末なものにこだわるのではなく、抽象度をあげて考えろ」とよくいわれます。たしかに、抽象度をあげれば思考は容易になるし、数値化すれば計算は楽になる。そしてその分、認識は雑になります。哲学者のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェに言わせれば、同一でないものを同一とみなすことにより概念は成立する。

認識とは、多種多様な数えきれないものを、等しいもの、類似したもの、数えあげうるものへと偽造することなのである。──『生成の無垢』

感覚器官が受け取った情報は脳内でイメージに転換され、さらに言葉に転換される。その言葉が概念になるまでには何回も変換が行われている。

たとえばセロリの葉と桜の葉は同一ではないが、個別の差を無視したり、忘れたりすることで「葉」という概念は成立する。すると、今度は概念が暴走を始める。まるで自然の中に「葉」の原型が存在するかのようなイメージを呼び起こし、その概念をもとにして現実世界の「葉」はスケッチされ、測定される。小林は警鐘を鳴らした。

真の科学者なら、皆、実在の厚みや深さに関して、痛切な感覚は持っている筈だ(中略)だが、科学の口真似には、合理化され終った多数の客体に自己を売渡す事しか出来はしない。──「還暦」

数値化したものを、再度積み上げても元には戻らない。劇作家・詩人・自然科学者のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、生物は諸要素に分解できるが、諸要素を合成することで生き返らせることはできないと言った。生命とは諸要素の連関である。

小林の思想の根本には、ゲーテの形態学、観相学が存在する。