NAKAMOTO PERSONAL

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「我慢する人生」より「好きなことだけしてる人生」に価値があるのか?

「『我慢する人生』より『好きなことだけしてる人生』に価値があるのか?」(文春オンライン)
 → http://bunshun.jp/articles/-/7309

 よく「我慢」ってのは下積みや修業を長年やってる人ってイメージで捉えられることが多いんですよね。徒弟制度的に、ある年齢までは皿洗いしかさせてもらえないとか、野球部でも一年生はボールに触れないとか。まあ、下積みは足切りという話のある通り、昔のやりたい奴はいっぱいいる、っていう人余りの時代では、どの世界でも当たり前にありました。そう簡単に技術を教えて渡してしまったら、自分の身が危ないということもあるでしょう。また、テレビマン、広告業界、ゲーム制作、アニメなど、安い給料で残業徹夜当たり前の世界で頭一つ出るために「下働きや修業が必要」という我慢を働く人に強いる仕組みが選抜の仕組みの代わりになっていたのかもしれません。


我慢というのは何なのか
 世の中、一定の割合で「どうしても我慢することができない人」や「欲を抑えられない人」ってのがいます。以前収監されてた人が「何年も下積みしている寿司職人は馬鹿」とか炎上商法やってましたが、一方で「小さな成功体験は大事」って話もしていました。見ている側からすれば「小さな成功体験を得るためにコケたときの損害やリスクを最小限にする必要があり、その期間が下積みなんだから結局は肯定してるじゃねえかデブ」とか思うわけですよ。

 とかく、世の中というのは「自分がコントロールできること」が狭いうちはやりづらいことが多いのです。一番分かりやすいのは手持ちのカネであって、カネがあれば自分の欲求と見比べながら可能なことを実現できるようになる。自分の持ち物や経験をカネで高めたりコントロールできたりするわけですね。逆に、カネがなければ自分の欲求や経験や環境をコントロールすることはできない。だから、どんなに怒っても嘆いても貧乏であることには変わりなく、思い通りにならない自分の前に呆然とすることになるのです。

 でも、我慢というのは何なのか。基本的には、小さな成功体験を積み重ねながら歩み続け、どこかにあるだろう「なりたい自分」や「こうであってほしい環境」を実現しようとする、ひとつのプロセスである、という話になります。つまりは、いきなり目的地に辿り着くことなどできないから、マイルストーンに一個一個到達するために、我慢して歩き続けなければならない、という話に過ぎません。


「好き」を仕事にするのがベスト、と言う嗜好至上主義者
 しかしながら、ただ漫然と「お前は何故いまの環境で我慢しているのか?」と煽られると、とたんに不安になるのも人間なのです。どこかに向かっている途上にあるのだから、これは我慢しようという自分の中の納得がない限り、この手の煽りに弱いのは事実であって、なりたい自分と、でもそうでない自分を見比べたときに、本来なら頑張ってインプットに取り組み、アウトプットを出していくべきところを、この不遇な環境が自分に不当な我慢を強いているのではないか、という気になってしまうわけであります。

 「我慢」できない人を煽って転がすテクニックに、「我慢なんて無駄だ」「やりたいことを仕事にすれば我慢しなくていい」って文言が、週刊誌やネットで躍ることは多くあります。その人の「好き」を仕事にするのがベスト、と言われる嗜好至上主義者です。まあ、私もゲームが子供のころから大好きで、実際ゲーム制作会社まで経営して、いまでもコンテンツ業界の片隅にはいますが、ゲームを遊んで楽しい快感と、ゲームを作って苦しい期間とは全然体験が違います。寿司だって、食べる側は「美味しいなあ」「寿司職人なら毎日こんなおいしいもの食べられるのかな」と思う一方、寿司職人の側は「なんだあの板前、クズのくせに威張りやがって」「年功序列辛いな、上の連中死なないかな」「早くパトロン見つけて店出していこう」などと、食べる側とは全然違うモチベーションで成り立っているわけですよ。もちろん、旨い寿司をお客様に食べてもらえるのが生き甲斐という人も多いでしょうし、仕事に打ち込むってのはそういうものだと思うんですよね。

 でも、思い返すと「好き」ってのは実はかなりコントロールされるものだと思うんですよ。というのも、したくない仕事だな、ってのは誰にでも降ってくるものですが、やってみたら意外と楽しかった、面白い部分を発見した、まずは取り組んでみたら感謝されてやりがいを感じた、ってことは往々にしてあると思うのです。最初は好きでもなければ興味もない仕事や職場に居場所を見つけて、自分が集中できる環境ができ、頑張っているうちに血路が開けたり、未来に展望が見えたりということもあるかもしれません。


我慢する生き方は、簡単に否定されるべきものなのでしょうか
 仕事というのは、最初は訳が分からないし楽しくないなかで取り組んでいるうちに、仕組みが分かり、面白くなってくるという経験を重ねながら、人はプロになっていくものなのだと思います。そこには、先輩や上司がいて相性もあって、環境によっては人間関係に苦しむなんてこともあると思いますが、それを我慢した先に、どんな明るさを見出せるのかが重要なテーマだと感じます。尊敬できる上司に巡り合えればそれに越したことは無いですし、仕事の仕方を覚えたら安い給料で働きたくなくなって起業する人もあり、あるいは薄給でも未来を見据えて頑張る人もいておかしくないわけです。

 一方で、後ろ向きな話として、お住まいの地域に「転職しようにも仕事がない」ケースもあれば、ご家族の事情で仕事を辞めるに辞められないという苦労を強いられる人も少なくありません。いまのギャラは決して十分じゃないけど、家族を養うためには我慢する、という生き方は、簡単に否定されるべきものなのでしょうか。家族を守るために少ない小遣いで懸命に生きる人生には「価値がない」と誰かに否定されるほど、誰かに認められたくて生きているのか、という話です。


我慢し、悩み、考え抜いているからこそ
 すべては、自分の人生をどうコーディネートしたいのか、何を実現したいと思っているのか、守るべきものは何だと考えているのか、自分が「生きている」と実感できる環境は何か――経緯と環境と価値観とスキルで決まってくるものでしょうから、人それぞれの生き方があり、我慢するべきものも違いがあり、多様な生き方があって良いのだと思うわけですよ。私であれ犯罪者であれ上司であれ家族であれ、いろんな人たちの意見も聞きつつ、しかし「やっぱり俺はこういう生き方がいいと思う」と言える人生が最高です。何より、上手くいこうが失敗しようが、納得できるじゃないですか。生まれてきたからには、納得して死にたい。この時代のこの社会で生きてよかったと、その生の軌跡に証を立てながら歩んでいく中に我慢があり、達成があり、喜びも苦しみも、人生で飲み干したビールの泡のように露と消えて、38億年回り続けてきた地球の一部へと返っていくのだと思えればそれでいいのです。

 我慢しないでやりたい放題している人を見て、あれを「羨ましい」と思うかどうかです。

 我慢し、悩み、考え抜いているからこそ人生なのだ、と自信を持って言えることが人間なのだと思うんですけどね。