NAKAMOTO PERSONAL

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会津藩とはなにが違う…?

庄内藩が新政府相手に『勝ち続けられた』組織の秘密」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56143

庶民と藩主が一体
前回、庄内藩のユニークな教育を紹介し、それが戊辰戦争における庄内藩の強さの一因になったのではないかと考察した。ただ、じつは強さの理由は、それだけでないと思っている。そこで今回、なぜ庄内藩は新政府軍に最後まで勝ち続けたのかについて、もう少し話を続けていきたい。

江戸時代の大名は鉢植えのように、幕府の意向によって領地を移された。とくに譜代大名には頻繁に「転封命令」が下された。しかし庄内地方は、元和八年(一六二二)に酒井忠勝が藩主になって以来、一度も国替えがなかった。幕末までずっと酒井氏がこの庄内地方を支配してきたのである。

江戸中期以降、酒井氏は領民に過酷な税をかけないなど、他藩にくらべると善政をほどこしてきた。

天明七年(一七八七)に庄内を訪れた江戸時代の旅行家・古川古松軒は「庄内の鶴ヶ岡城下に止宿したが、酒井氏の政治が正しいので、豊かな農民も多数見え、衣服も卑しくなく馬も肥え太り、屋敷も美しい。これまで旅行してきたところで最も素晴らしい。会津の若松、二本松、白河、米沢は大藩の城下町だが、とても鶴ヶ岡城下にはかなわない」と述べている。こうした暮らしが可能だったのは、本間家の存在があったからである。

本間家は、酒田の豪商で日本一の大地主でもある。庄内藩は、そんな本間家の財力でたびたび財政難が救われ、ときには藩主(酒井忠徳)の依頼によって当主(本間光丘)みずからが藩政改革をまかされることにあった。本間家は、直接領民に対しても飢饉時の救恤、低利の融資、砂防林の造成など多大な支援をおこなってきた。

ところでなぜ本間家は、このように酒井氏に徹底的に尽くし、領民を保護し続けたのか、今の感覚では解せないかもしれない。

一つは、藩の許可がなければ商売ができないからである。どんな豪商であっても、藩ににらまれたら簡単に財産を没収されたり、処罰されてしまう。四代目末次平蔵、五代目淀屋辰五郎、銭屋五兵衛などその例は数え切れない。ならば積極的に藩と協力して発展していくほうが得策なのだ。

また、当時は持てる者は持たざる者を救う義務があると考えられていた。飢饉のときに打ちこわしによって豪商や豪農の屋敷が襲撃されるのは、苦しんでいる自分たちを救おうとしないという怒りからなのだ。

ただ、本間家を発展させた三代目当主・本間光丘は、経営手腕にすぐれているだけでなく、大変な人格者でもあり、「儲けた金は人のために使え。貧しい人に分け与えよ」というポリシーをもっており、その考え方が歴代当主に引き継がれていったのである。

そこで当時から「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」とうたわれ、神様のようにあがめられた。つまり庄内藩は、領民である本間家のおかげで安定しているわけで、その事実は庄内藩士もよく理解していたし、それゆえ彼らは農民や商人への偏見というものが比較的薄かった。

そんな庄内藩に激震が走ったのが、天保十一年(一八四〇)十一月のことである。

幕府が酒井氏に対し、「越後国長岡へ転封せよ」という命令を下したのだ。

俗にいう三方領知替えである。日本史の教科書にも載っているから、なんとなく覚えている方も多いだろう。

この頃、外国船が頻繁に日本近海に姿をあらわすようになったので、幕府はいくつかの藩に江戸湾周辺の防備を命じた。譜代の川越藩もその一つだったが、これにより経済的負担にあえぎ、もっと豊かな土地への移封を幕府に求めたのだ。

そこで「幕府は、相模の海岸防備を担わせていた川越藩の財政を援助する目的から、川越・庄内・長岡3藩の領知をたがいに入れ換えることを命じた」のである。具体的には「川越藩が豊かな庄内藩へ、庄内藩が越後長岡へ、越後長岡藩が川越藩へ移る」(『詳説日本史B山川出版社 二〇一八年)というものであった。そう教科書に記されている。

この知らせが庄内に届くと、「領内男女老若に至る迄、是を聞いて驚嘆怨哀せざる者無し」(『酒井家世紀』)という大混乱におちいり、やがて領内各地で百姓一揆が起こりはじめた。酒井氏を慕うあまり、転封を阻止するための行動であった。殿様にいてほしいからと、一揆が組織されたのは、おそらく前代未聞のことであろう。


会津藩との大きな差
とはいえ、幕府の命令なので、酒井家では仕方なく領地替えの準備に入った。

しかし領民のほうは一向に納得せず、翌年正月から、領内の農民が数十名づつ徒党を組んでは江戸へ出府し、老中の水野忠邦をはじめ、幕府の閣僚たちの登城を待ちうけ、転封中止の嘆願書を渡すといった直訴が相次いだのだ。

庄内藩ではこうした領民の行動を強く制止したが、その勢いはおさまらず、会津藩米沢藩仙台藩などへも哀願に出かけ、次第に激しさを増していった。

この執拗な庄内領民の運動は他の大名たちの同情を集め、翌天保十二年七月、ついに幕府は酒井氏の領地替えを撤回せざるを得なくなったのである。一度出された幕府の転封命令が、領民の反対によって引っ込められたのは、前代未聞のことであった。

これを知った庄内の人びとは、

「天を拝し、地に謝し、嬉しさ極りて哭泣する者あり。山間僻遠の村落といえども、即日快報を聞かざる者なく、直に酒餅を供へて神仏に奉斎し、隣保会合して連日の祝宴を挙げ、皆共に御代万歳を唱へたり。中にも裕福なる者は、酒餅赤飯等を道行く人々にあまねく接待して、前代未聞の殷賑を極めたり」(『天保快挙録』)

と躍り上がって喜び、お祭り騒ぎとなった。

ところがそんな庄内藩は、幕末に存亡の危機に立たされることになった。朝敵になってしまったのである。

慶応三年(一八六七)末、西郷隆盛は徳川家を武力で倒すため、江戸に浪人たちを送り込んで、市中で乱暴狼藉を働かせて挑発した。このとき江戸の治安を守っていた庄内藩は、このやり方に怒って幕臣たちとともに薩摩藩邸を焼き打ちしたのである。こうしたこともあって、戊辰戦争庄内藩は、会津藩と並んで朝敵にされてしまった。

仕方なく庄内藩は、会津藩や東北諸藩(奥羽越列藩同盟)とともに新政府軍を迎え撃つが、圧倒的な軍事力の差によって同盟諸藩は次々と敗れていった。

ところが庄内藩だけは、緒戦で敵対する周辺諸藩を完膚なきまでに叩きのめし、さらに新政府の大軍が襲来した後も、頑強な守備でほとんど藩内への侵攻を許さなかったのである。驚くべき強さであった。

しかしやがて、すべての東北諸藩が降伏してしまった。負けていないとはいえ、完全に孤立してしまったため、ずっと戦い続けるのは不可能だった。ここにおいて庄内藩も、ついに新政府に降伏を申し入れたのである。

ちなみに、ここまで庄内藩が強かったのは、やはり藩が一丸となって戦ったからだろう。よく知られているように、同じく朝敵とされた会津藩も一丸となって戦った。しかも、会津藩もずっと松平(保科)氏が支配し続けており、その立場は極めて酒井氏に似ていた。なのに庄内藩とは異なり、あっけなく若松城下への敵の侵入を許し、一度も戦いで優勢に立つことなく降伏してしまっているのだ。

庄内藩会津藩の、この両藩の差は何なのか――。

それについて、会津を降伏させた新政府軍の将・板垣退助は、次のように説明する。

会津は天下の雄藩とうたわれているのに、その滅亡にあたって藩に殉じる者は五千の士族だけだった。私は、領民がみんな家財をまとめて逃げ散るのを見て、深く感じるところがあった。(略)会津は天下屈指の雄藩である。もし士庶が心を一つにして協力していれば、わずか五千に満たない我々新政府軍が容易に会津藩を降伏させることはできなかったろう。

けれど、いま述べたように領民は難を避けて遁走し、まったく長年の君恩に報いようとせず、藩の滅亡を見ても同情すら見せなかった。いったいなぜか。

それは、武士と領民の関係が隔絶していて、互いにその楽しみを共にしなかったからである。楽しみを共にしていないのに、どうして苦しみを共にすることができるだろうか」(板垣退助監修『自由党史』岩波文庫

板垣が述べているように、新政府に一丸となって抵抗したのは、会津藩士とその家族たちだけであった。領民は重税を課せられ、藩を憎んでいる者が多かった。だから非協力的だったのだ。巷説によれば、領民の中には藩士が必死に戦っているのを、山の上から弁当を食べながら見物していたものもいた、ともいう。

しかも、照姫(会津藩松平容保の義姉)らが降伏して若松城から出てきたとき、なんと領民たちが憔悴した一行を取り囲み、これを嘲笑し、罵声をあびせかけているのである。

対して庄内藩は、全く違った。領民も藩士とともに必死に戦っているのだ。しかも驚くべきことに、庄内軍四千のうち、なんと半数は農民や町人だったのである。この、藩士と領民の一体化が、戊辰戦争における庄内藩の強さの秘密だったのである。


なんとも不思議な藩
さて、新政府に降伏した酒井氏だが、藩主は交代したものの家名存続は許された。が、実収二十万石以上の庄内地方を追われ、十二万石を与えられて会津若松へ転封となってしまった。これに衝撃を受けた藩士、豪商らは再び農民たちとともに転封阻止運動を熱心に展開した。多くの農民が上京して新政府に直訴したのである。

そこで新政府は若松への移封は中止にしたが、翌明治二年(一八六九)六月、今度は磐城国平へ移るよう命じたのだ。しかし庄内藩士と領民は執拗に必死に食い下がり、とうとう「七十万両の献金を新政府に差し出せば、庄内に残してやる」という言質をとることに成功したのである。

とはいえ、七十万両というのはとてつもない莫大な額だ。そこで庄内藩では、藩士豪農・豪商、領民までもが金銭のみならず、刀剣類、銅銭、米などをかき集め、まずは三十万両を献納したのだった。だが、これ以上の献金はとても不可能だった。が、哀れに思ったのか、明治三年四月、新政府は残りの四十万両を免除したのである。こうして酒井氏は、士庶の結束によってまたも転封を阻止したのだった。

いっぽう会津藩は、わずか三万石(旧領の十分の一程度)減封され、陸奥国斗南へ移され、藩士たちは塗炭の苦しみを味わった。何とも対照的であろう。

ただ、庄内藩がこうした軽い処分で済んだのは、じつは西郷隆盛の助力が大きかったからだとされる。具体的に西郷がどのように庄内藩のために動いたのかという史料は、管見の限りでは確認できなかった。

しかしながら庄内藩士たちが西郷の配慮に感激したのは本当で、明治三年から続々と留学生を鹿児島へ派遣している。西郷の郷里である薩摩に学ぼうというわけだ。留学生の数は七十名以上にのぼった。が、それだけでなく、驚くべきことに、藩主だった酒井忠篤までもが薩摩へ赴いているのである。このため、明治十年に西郷が反乱を起こしたとき、明治政府が密偵を遣わして庄内地方の動きを警戒するほどだった。

西南戦争に敗れ西郷は逆賊となるが、明治二十二年の憲法発布の恩赦により、その名誉は回復された。すると翌年、西郷の言葉を集めた『南洲翁遺訓』が刊行される。この本を出版したのは、元薩摩藩士たちではない。なんと、西郷に感謝していた元庄内藩士たちだったのである。さらに彼らは、この本を各地にもっていき、西郷という人の素晴らしさを全国に伝えたのだった。

庄内藩というのは、何とも不思議な藩である。