NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

垂直的孤独性、とか。凝縮的透明性、とか。

「宗教」ではない宗教性


 信じる人は困ったものだと皆が言っている。根は真面目で、しかも頭の良い人たちなのに、と。
 そういうふうに言うときの人々の口調に、何かずるいものを私は感じる。確かに彼らは頭が良いが、信じているから馬鹿なのだ。信じる人は馬鹿なのだ。知的な人間は信じないものだ、信じない自分のほうがだから彼らより知的なのだ、それで一段高みから彼らを論評する資格が自分にはあるのだといったような。
 これ、うそ。この両者、おんなじ。信じてる人も、信じてない人も、なぜ信じ、なぜ信じていないのかを、考えることなく信じてたり信じてなかったりするのだからまったくおんなじ、つまり考えなし。考えることなく信じている、これを信仰という。世のほとんどが無宗教信者。
 人が何がしかの宗教的なものに関わるのは、救われたいからだ縋(すが)りたいからだと思うのは、もうやめにしてもいいのではないか、信じてる人も信じてない人も、ちょうど、きりよく二千年たつことだし。
  信じてる人、聞いてください。
 あなたが信じたのは、自分の孤独に不安を覚えたからだった。ところで、信じたところで、あなたがあなたでなくなりますか、宇宙が宇宙でなくなりますか。いや、信じることによって自分と宇宙は一体化できるのだというのなら、宇宙自身の孤独はどうなるのですか。宇宙は自分が自分であって自分以外ではないという孤独を、何によって癒せばよいのでしょう。そのときあなたの孤独は、じつは宇宙大に拡大しただけの話ではないでしょうか。つまることろ、「あなた」とは誰ですか。あなたはそれについて、信じるのではなく考えたことがありますか。また、考えるために大勢でまとまる必要が、なぜあるのでしょうか。
  信じてない人、聞いてください。
 あなたが信じていないのは、自分は自分であり宇宙とは別物であると信じているからだった。ところで、そう信じられるためには、あなたは「自分」という言い方で何を指示しているのかを、明確にできなければならない。それはあなたの肉体を指しますか。それとも心ですか。では心はどこにありますか。心なんてものはない。それは脳のことを指すのだというのなら、では、脳を作ったのはあなたですか。あなたの脳を作ったのは、ほかでもない、宇宙ではないのですか。ではなぜ、宇宙と自分とを別々にして考えられましょうか。人が宗教的なものに考え至らざるを得ないのは、実は救済以前の問題なのだと、このとき気づきはしませんか。
 私は、信仰はもっていないが、確信はもっている。それは、信じることなく考えるからである。私は考えるからである。宇宙と自分の相関について、信じてしまうことなく考え続けているからである。救済なんぞ問題ではない。なぜなら、救済という言い方で何が言われているのかを考えることのほうが、先のはずだからである。人類はそこのところをずうーっと、あべこべに考えてきたのだ。これは、驚くべき勘違いである、気持ちは、わかるけど、オウムの事件は、たぶん、トドメの悪夢なのだ。
 新しき宗教性は、だから、今や「宗教」という言葉で呼ばれるべきではない。それは「宗 - 教」ではない。きょうそもお教団も教理も要らない、それは信仰ではない。それは、最初から最後までひとりっきりで考え、られるし、また考える、べき性質のものなのだ。だからそのあらたなる名称は、
  垂直的孤独性、とか
  凝縮的透明性、とか
 そんなふうな響きをもった、何を隠そうその名は、「哲学」なのである。

── 池田晶子『残酷人生論―あるいは新世紀オラクル』