NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「編集手帳」+「産経抄」

「10月15日付 編集手帳」(読売新聞)
 → http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20111014-OYT1T01420.htm

 敬愛する同業の先輩に、石井英夫さんがいる。産経新聞の名物コラム『産経抄』を35年間にわたって書き続けた方である。数年前に会社を退き、いまは「家事手伝い」という肩書を印刷した不思議な名刺を携えて、雑誌などに健筆をふるっておられる
 いつだったか、初任地の札幌で過ごした新人記者当時の昔ばなしをうかがった。雪の夜、地元紙の先輩記者に連れられて、石井青年が屋台でコップ酒を酌み交わしたときの思い出である
 「石井君、新聞記事っていうのは炭ガラみたいなものだ」。先輩記者は、そう言ったという
 炭ガラとは石炭の燃えカスである。「ストーブの炭ガラと同じように、新聞は次の日になれば捨てられてしまうけれど、一昼夜、人々の心を暖めたんだ。暖めた、そういう記事を書いたと思えば満足じゃないか。炭ガラ冥利に尽きるじゃないか」と
 「新聞週間」を迎えて、各紙で震災報道の検証が始まっている。おもちゃのように小さなストーブにすぎない小欄だが、被災者を暖めることのできた日がたとえ一昼夜でも、はたしてあったかどうか…。わが“炭ガラ”たちに問うてみる。


「【産経抄】10月17日」(産経新聞)
 → http://sankei.jp.msn.com/life/news/111017/art11101703070000-n1.htm

 土曜日付の読売新聞の『編集手帳』が、「敬愛する同業の先輩」として、小欄読者にはおなじみの石井英夫さんを取り上げていた。お返しでいうわけではないが、その石井さんはかつて、尊敬する「コラムの鬼」として、昭和30、40年代の『よみうり寸評』の筆者を挙げていた。昭和44年の秋、60歳の若さで亡くなった細川忠雄である。

 『忘れられた名文たち』の著者、鴨下信一さんら文章の目利きたちからも絶賛されてきた。週末に図書館でコラムの数々を読み返し、改めて舌を巻く。時事問題への切り込みの鋭さは言うまでもない。

 「家人はたいていのことには、私の言いなり放題に従うが、ときにしてぴりっとレジスタンスのワサビをきかせることがある」。こんな具合にしばしば、奥さんや子供、孫との生活をユーモラスに書きつづった。

 新聞コラムではタブーとされる「家族もの」で読者をうならせるには、よほどの覚悟が必要だ。最後のコラム集の後書きで、その舞台裏が明かされている。奥さんによれば、『寸評』を担当して以来、好きなゴルフをやめ、酒仲間との会合も控えるようになり、夜は10時には寝てしまう。

 特注の分厚い画用紙のような原稿用紙に、鋭く削った鉛筆で、文字を刻んでいったという。死の前日、奥さんから差し出された原稿用紙に、3本の小さな線を書いて倒れた。書き出しのノンブルの(1)でないか、と周囲の人は想像した。

 説教にはおよそ縁のない人だったが、珍しく新入社員の前で演説をぶってしまったことがある。「知恵もないが、その知恵を絞り出す努力が足りないのである」。耳の痛い叱責を、「新聞週間」の間だけでも机の前に貼り出しておくつもりだ。

いとしきニッポン

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コラムばか一代 産経抄の35年 (扶桑社文庫)

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