NAKAMOTO PERSONAL

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白老町

nakamoto_h2011-05-03

「【被災地を駆けた無名戦士たち】北海道白老町 1000食分の焼き鮭も提供、仙台市とは江戸時代以来150年の交流」(産経新聞)
 → http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110503/dst11050318000021-n1.htm

 苫小牧の西、太平洋に面した北海道白老町(しらおいちょう)は、黒毛和牛の白老牛や虎杖浜(こじょうはま)タラコなどで知られる農業と漁業の町だ。町内にはアイヌの集落、ポロトコタンがあり、豊かな文化と歴史に彩られた町でもある。ここの町職員6人と民間社員2人が東日本大震災で被災した仙台市に派遣されたのは、地震発生から4日後の3月15日朝のことだった。

 「仮設トイレの設置と給水車での支援活動を行いました。函館から青森までフェリーを使い、白老から18時間かかりましたね」と第1次派遣隊の責任者、消防管理課長の越前寿さん(51)は振り返る。

 白老町がいち早く仙台市に職員を派遣したのは姉妹都市という関係からだ。その結びつきは江戸末期までさかのぼる。東北の各藩は幕府から北方警備を命じられ、白老から襟裳岬(えりもみさき)、択捉島(えとろふとう)までをあてがわれた仙台藩は、白老に元陣屋を置いた。先住民のアイヌの人々とも友好的に共生を図り、それが今も白老がアイヌ文化の拠点となっていることにつながる。

 民間レベルでの交流も盛んで、飴谷(あめや)長蔵町長(60)によると、スポーツ少年団やママさんバレーなど毎年200〜300人が行き来しているという。


 「うちはこれまで仙台に何倍もお世話になっている。うちが被災地になったら、仙台は10倍、20倍やってくれるよ、と言った町民がいた。行政主導でやっていたらこんな深い関係になっていない。本来の姉妹都市のあるべき姿だと思う」と飴谷町長は言う。

 第1陣の町職員6人のうち、給水の担当部局の職員は1人だけ。ほかは総務課や教育委員会などの職員で、普段の業務とはかけ離れた作業だった。毎朝6時に浄水場で水を補給して、断水していた団地で提供。補給は1日11往復に及び、途切れることなく夜8時まで続いた。「補給に行っている間も職員を残していたのがよかった。40分くらいで戻ってくるから待ってくださいねと言いながら、住民と交流できましたからね」と越前さん。

 そんなこまやかさが伝わったのか、被災者にもかかわらず差し入れを持ってきてくれた住民も多かった。3月23日から引き継いだ第2陣の責任者、建設課長の安達義孝さん(55)は「1日3回も4回も来る人もいて、すっかり顔見知りになる。クリーニング店の奥さんは、みそ汁だのおでんだの毎日温かいものを差し入れてくれた。感動的でした」と打ち明ける。


 ほかに町民が持ち寄ったカセットコンロや缶詰などの救援物資も何度か輸送。4月2日には、1000食分の鮭(さけ)を現地で焼いて振る舞い、大いに感謝されたという。「避難所の代表の方が、焼き魚を食べられるとは思わなかったと涙ながらに話してくれた。鮭のシーズンは終わっているんですが、漁協に頼んで全道各地から集めてもらいました」と炊き出しを行った企画政策課主幹の今村吉生さん(54)。

 白老の名産に、サチェップという鮭を薫製にしたアイヌの伝統食がある。150年を超える強い絆が、心のこもった支援になった。