NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「敬天」

「【元気のでる歴史人物講座】(88)広瀬淡窓 私塾主宰、評判の教育方針」(産経新聞)
 → http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100915/acd1009150815003-n1.htm

 江戸期、全国に私塾が数多くできたが、近世最大の私塾が豊後(ぶんご)国日田(ひた)(大分県日田市)にあった咸宜(かんぎ)園である。創始者の広瀬淡窓(たんそう)は50年間塾を主宰し、約3千人の人々が学んだ。塾生が来なかったのは下野(しもつけ)、甲斐(かい)、隠岐(おき)、大隅(おおすみ)の4カ国だけである。
 淡窓独特の教育方針が三奪の法と月旦(げったん)評と分職の3つである。三奪の法とは入門時、年齢、学歴、身分の3つを奪い、同一線に並ばせ、そのあとは塾内における勉学如何(いかん)で優劣が定まるやり方である。
 月旦評とは毎月はじめに全塾生の成績を厳正に評価し一覧表にして公表したことである。これにより塾生の努力、やる気を促した。
 分職とは全員に塾内の仕事を与え、職務分担をさせることである。淡窓は共同生活を重視して塾生が学問、人格共にすぐれた人物になることを願った。こうした淡窓の教育のやり方が評判を呼び、全国から人々が駆けつけたのである。
 淡窓は学者、教育者、詩人として超一流だったが、何よりもすぐれた人格の持ち主だった。54歳のとき、日々善事を積み重ね「一万善」を達成する決意をした。毎日、善(よ)いことを行ったとき、3つならば白丸印を3つつける。悪いことをした場合、2つならば黒丸印を2つつける。その差し引きで67歳のとき1万に達した。そのあと73歳まで続け、さらに「五千善」に及んだ。生涯かけて内省と修養、積善積徳に努めた江戸期の生んだ偉人であった。

そろそろ日田に戻るかな。


『広瀬淡窓 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E6%B7%A1%E7%AA%93
『咸宜園 - Wikipedia』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%B8%E5%AE%9C%E5%9C%92

広瀬淡窓と咸宜園―ことごとく皆宜し

広瀬淡窓と咸宜園―ことごとく皆宜し