NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

9月2日

「【正論】宗教学者・山折哲雄 『9・2』に日本移民の苦難思う」(産経新聞)
 → http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100902/acd1009020325000-n1.htm

 私は、父親の仕事の都合で、昭和6(1931)年、米国のサンフランシスコで生まれた。当時、父親は本願寺の海外開教使として、その地の仏教会に勤めていたのである。しかし、6歳のとき帰国してしまったためか、そのころの記憶はほとんど残っていない。船で太平洋を渡っているうちに忘れてしまったのだろう。


 ◆「桑港」で聞く収容所生活
 ただ、もの心ついたころから、父親が「桑港」「桑港仏教会」と口ぐせのようにいっていたのが今ではなつかしい。サンフランシスコとはほとんどいわなかったように思う。「桑港」という言葉を、横浜や神戸というのと同じような気分できいていたのである。それが子どものころからの私のアメリカ感覚だった。
 父と母は、昭和初年代に移民船の3等船客として米国に渡ったが、帰国するときは私と弟とともに2等船客として祖国に帰ってきた。そのときに経験した人間の差別について、父は戦中も戦後もよく口にしていたことを覚えている。はるか後年になってスタインベックの『怒りの葡萄(ぶどう)』を読み、苛酷(かこく)な移動農民の人生にふれたとき、その父の昔話が蘇った。
 もう30年ほども前のことになるが、宗教にかんする国際会議がウィスコンシンで開かれ、招かれて渡米した。数日間そこに滞在したあと、私は予定された最後の訪問地である「桑港」に立ち寄った。ほとんど半世紀ぶりの浦島太郎さながらの気分だった。私の子どものころを知っているご門徒の方々がもう70、80の高齢に達しておられた。
 一夕、その方々がお集まりになり歓迎の宴をもって下さった。「桑港仏教会」を中心とするなつかしい思い出とともに、話はしだいに戦争中の苦難にみちた体験へと移っていった。収容所の生活が日系移民たちにとっていかにきびしいものであったかをこもごも語られ、夜の更けるのも忘れてきき入ったのである。


 ◆盛岡出身の放浪俳人の墓も
 それからしばらく時が経ち、平成10(1998)年のことだ。日本の本願寺教団が北米に開教してから100年が過ぎた。それを祝う行事をサンフランシスコでやるからと誘われ、再訪することにしたのだが、このときばかりは気持ちがすこし改まっていた。
 行事の一環として、郊外のコルマにある日本人墓地で法要がおこなわれた。きれいに晴れわたった青空の下に僧俗の関係者が集まり、異国の地に骨を埋めた日系移民たちの冥福を祈ったのである。それは広大な墓地公園になっていたが、その一画に下山逸蒼(いっそう)の墓があった。
 といっても、今ではその名を知る人はほとんどいないであろう。当時、かれは、荻原井泉水(せいせんすい)の「層雲」に拠(よ)る自由律の俳人として知られていた。明治36年、24歳のとき郷里岩手の盛岡を出て太平洋を渡り、ついにふたたび故国の地をふむことがなかった。家族をつくらず、転々と職をかえ、在米生活33年の放浪の人生を楽しんだのである。昭和10年、サンフランシスコで逝ったが、生涯に3万句をつくりつづけたという。そのコルマ墓地にある下山逸蒼の墓碑には、師匠の井泉水の書で、
 夜霧の伴(とも)が減って減ってひとり
の一句が刻まれている。孤独な旅路の果てに辿(たど)りついた「ひとり」だったと、心に響いたのである。


 ◆先人記念館の隅にひっそり
 平成16年のことだった。その8月に私は、盛岡で開かれたある会議に出席するため、ふるさとの岩手の地をふんだ。そこは下山逸蒼が生まれたところでもあった。そんなこともあって、会のはじまる前、駅前に建てられている「先人記念館」に足を運んだ。
 訪れてみて、あらためて驚いた。原敬新渡戸稲造からはじまって、石川啄木宮沢賢治、そして田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ)や金田一京助と、先人や偉人の部屋が目白押しで、その遺品の数々もとぎれることのない流れをつくって陳列されていた。
 その前を移動しながら、私の目は何とか下山逸蒼の存在を探しあてようと緊張していた。だが、いつまでたってもそれがあらわれない。そこには100人以上の人物が紹介されていたと思うが、そのなかにまぎれてしまったのかと、半ばあきらめかけていたときだった。最後のコーナーにさしかかったとき、かれのささやかな遺品がひっそり、そこに置かれていることに気がついた。句集がわずかに2、3冊、無造作に並べられていたのである。
 今日は、ちょうど65年前の昭和20年9月2日にあたるのだという。東京湾に浮かぶ戦艦「ミズーリ号」上で、日本政府の代表、重光葵(まもる)外相が降伏文書に署名した日である。
 けれども、サンフランシスコのコルマの墓地に今なお眠っている日本移民たちの魂魄(こんぱく)は、そのようなたんなる敗戦の儀式をこえて、祖国の山河をじっとみつめつづけているにちがいないのである。