NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

平和の歌の楽天家

「【産経抄】12月12日」より
 → http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091212/plc0912120256000-n1.htm

 プラトン研究などで知られる哲学者、田中美知太郎氏は現代政治にも積極的に発言していた。かつて著書『今日の政治的関心』の中でこう述べている。「平和というものは、われわれが平和の歌を歌っていれば、それで守られるというものではない」。

 ▼さらに続けて「いわゆる平和憲法だけで平和が保障されるなら、ついでに台風の襲来も、憲法で禁止しておいた方がよかったかも知れない」と言う。戦後日本のあまりに現実離れした「平和主義」をこれほど的確に、しかも皮肉たっぷりに批判した論はなかった。

 ▼それでもなお平和の歌で平和を守ろうという人たちは、オバマ米大統領のノーベル平和賞受賞記念演説をどう聞いただろう。その人たちが最も嫌う戦争を「平和を維持する一定の役割をもっている」と認めたのである。会場には平和賞授賞式とは異質の空気が流れたようだ。

 ▼オバマ氏はまた、戦後の歴史を「米国が血を流し軍事を増強することで世界の安全を支えてきた」とまで言い切った。オバマ氏にノーベル賞を授与すれば、戦争がなくなるとでも思っていた人たちには肩透かしだろう。日本のマスコミも困惑気味だった。

 ▼だが、米大統領は自国と同盟国の安全に最も重い責任を負わされている。安全をめぐる世界の現実がどれだけ厳しいかを、正確に知る立場にもある。「平和って、話し合いや友情だけではとても守れないんですよ」と世界中に訴えているようにも聞こえた。

 ▼それにひきかえ鳩山由紀夫首相の「楽天家」ぶりはどうだろう。「友愛」を唱えておれば各国と仲良くできると考え、米軍基地問題の迷走でも、さっぱり危機感が伝わってこない。憲法に台風襲来禁止を書いて済ますような政治にしか思えないのだ。


曽野綾子さんは言います。
「透明な歳月の光 『無防備宣言地域の愚』」より。

 こういう発想は、日本人がここまで底抜けに愚かになったか、日本に敵対する国家的思想の謀略が日本で動き出しているかどちらかだろう。
 そもそも、自分が平和的な人間なら、人もそういういい人ばかりだろう、と思うのは、日本以外の国家では、子供でもしない発想である。なぜなら、多くの人は理由なく侵入され、略奪され、放火され、レイプされ、殺される歴史を体験として知っているか、現在もまた同じようなことが行われていることを、子供でも知っているからだ。スーダンのダルフールでは、まさに今日只今、そのような地獄が現実に起きている。

 私の住む東京都大田区もこの運動の中に入っているから、宣言採択のあとはすぐ警察を全面撤退させるといい。空き巣や強盗も宣言があればなくなるかもしれない。ただし、「無防備地域」を宣言した市町村は、異常事態が発生しても一切守る必要はない。それが自己責任の結果と覚悟すべきだ。

無防備地域宣言運動全国ネットワーク』 http://peace.cside.to/

透明な歳月の光

透明な歳月の光


吾が聖典に曰く、

 言うまでもなく、最高価値としての平和は、それによって何らかの文化的価値を守るためのものではなく、他のあらゆるものに替えてもこれを守るべきものとなります。尤(もっと)も、この場合、「あらゆるものに替えても」は決して「命に替えても」というフレイズには繋がりません。なぜなら平和というのは生命保存の本能という言葉の代用語だからです。もともと自分たちには命に替えても守りたいもの、或は守るに値するものは何も無い事を教えられたからこそ、平和が最高価値になったのです。命に替えても守りたいもの、或は守るに値するものと言えば、それは各々の民族のうちにある固有の生き方であり、そこから生じた文化的価値でありましょう。その全部とは言わないまでも、その根幹を成すものをすべて不要のもの、乃至(ないし)は悪いものとして否定されれば、残るものは生物としての命しかありますまい。平和が最高価値と言うのは、生命が最高価値ということです。その意味でもエゴイズムとヒューマニズムとのすり替え、或は混同が生じております。

―─ 福田恆存日本への遺言


日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)

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