『分福の説』
幸福になるための、幸福三説。
1、惜福 = 福を惜しむこと。 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20090116
2、分福 = 福を分けること。
3、植福 = 福を植えること。
「分福の説」の巻。
『分福の説』-(幸福三説・第二)
福を惜しむということの重んずべきと同様に、福を分かつということもまた甚だ重んずべきことである。
惜福は自己一身にかかることで、いささか消極的の傾(かたむき)があるが、分福は他人の身上にもかかることで、おのずから積極的の観がある。
分福は何様(どういう)ことであるかというに、自己の得るところの福を他人に分ち与うるをいうのである。
たとえば自己が大なる西瓜(スイカ)を得たとすると、その全顆(ぜんか)を飽食し尽すことをせずしてその幾分かを残し溜むるのは惜福である。その幾分を他人に分かち与えて自己と共にその美を味わうの幸(さいわい)を得せしむるのは分福である。
惜福の工夫を為し得る場合と然(しか)らざる場合とに論なく、すべて自己の享受し得る幸福の幾分を割いてこれを他人に分ち与え、他人をして自己と同様の幸福をば、小分にもせよ享受するを得せしむるのは分福というのである。
惜福は自己の福を取り尽さず用い尽さざるをいい、分福は自己の福を他人に分ち加うるを言うので、二者は実に相異なり、また互に表裏をなして居るのである。
福を専らにしようという情意は、実に狭小で鄙吝(ひりん)で、何ともいえぬ物淋しい情意ではないか。言を換うれば、福らしくもなく福を享くるということになるではないか。
己を抑えて人に譲る、是(かく)の如(ごと)きは他の動物に殆どなきところで、人にのみあり得るところである。物に足らざるも心に足りて、慾に充たざるも情に充ちて甘んずる、是の如きは他の動物になくして人のみにあり得るところである。
禽(とり)は蔭深き枝に宿し、人は慈悲深きところによるものである。
慈悲深きものの発現はただ二途あるのみで、その一は人のためにその憂を分ってこれを除くのであり、他の一は人のために我が福を分ってこれを与うるのである。
即ち我が福を分って衆人に与え、而して衆人の力に依って得たる福を我が福とするのである。
すべて人世の事は時計の揺子の如きものであって、右へ動かした丈は左へ動くものであり、左へ動いた丈は右に動くものである。天道は復(かえ)すことを好むというが実にその通りで、我より福を分ち与うれば人もまた我に福を分ち与うるものである。