NAKAMOTO PERSONAL

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諭吉

福沢諭吉の新たな写真発見 オランダで」(産経新聞)
 → http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081025/acd0810251940007-n1.htm

 福沢諭吉(1835〜1901年)が文久2(1862)年、文久遣欧使節の通訳として渡欧したさいに撮影された写真4枚がこの夏、オランダのユトレヒトで発見された。渡欧中の肖像写真はこれまでに十数枚が確認されているが、慶応義塾福沢研究センターの都倉武之さんは「諭吉の自由闊達(かつたつ)な気風がとらえられたとても興味深い写真」と話す。
 竹内下野守保徳を正使とした使節は文久2年1月に長崎を発ち、フランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルをめぐり、約1年後に帰朝。使節はこの旅でユトレヒトの造幣局を訪問している。
 4枚の写真は東京大学史料編纂(へんさん)所の谷昭佳さんが、ユトレヒト貨幣博物館が所蔵する文久遣欧使節の写真31枚を収めた記念アルバムの中で発見した。1枚は諭吉を含む使節4人の大判集合写真(20・3センチ×15・2センチ)、3枚は諭吉単独の名刺判写真(10・5センチ×6・3センチ)。
 大判写真の裏にはユトレヒトで活動していたドイツ系写真家「F・KAYSER(カイザー)」のスタンプがあり、使節がユトレヒトを訪問した7月15日から17日の間に撮影された可能性が高い。単独写真3枚も諭吉が同じ着物であることから同日撮影とみられる。
 「史料によると、一行がユトレヒトに到着した7月15日の夜にティボリ公園で歓迎会が催されています。推測ですが写真は歓迎会の前に撮影されたのでは。1カ月に及ぶオランダ滞在が終了した安堵(あんど)感が感じられるようです」と谷さん。
 諭吉が64歳のときに口述筆記させた『福翁自伝』で「各国巡回中待遇の最もこまやかなるはオランダの右に出るものがない」と回想しているように、4枚の写真からは歓待を受けてリラックスしている諭吉の様子がうかがえる。

著作は色々あれども、中でも『瘠我慢の説』が良い。

「父母の大病に回復の望みなしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるがごとし。」

幕臣でありながら瓦解寸前の幕府を見捨てたとして、勝海舟を痛烈に批判します。

人間、痩せ我慢が必要な時もあります。

 「左(さ)すれば、自国の衰頽に際し、敵に対して固(もと)より勝算なき場合にても、千辛万苦(せんしんばんく)、力のあらん限りを尽くし、いよいよ勝敗の極に至りて初めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に奉ずるの義務と称すべきものなり。すなわち、俗にいう瘠我慢(やせがまん)なれども、強弱相対(あいたい)していやしくも弱者の地位を保つものは、単(ひとえ)にこの瘠我慢に依(よ)らざるはなし。啻(ただ)に戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても瘠我慢の一義は決してこれを忘るべからず。欧州にて和蘭(オランダ)、白耳義(ベルギー)のごとき小国が、仏独の間に介在して小政府を維持するよりも、大国に合併するこそ安楽なるべけれども、なおその独立を張りて動かざるは小国の瘠我慢にして、我慢能(よく)国の栄誉を保つものというべし。」

―― 福沢諭吉(『瘠我慢の説』)


新版 福翁自伝 (角川ソフィア文庫)

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明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫 (675))

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