『植福の説』
『植福の説』 -(幸福三説・第三)
植福とは何であるかというに、我が力や情や智を以て、人世に吉慶幸福となるべき物質や情趣や智識を寄与する事をいうのである。
即ち人世の慶福を増進長育するところの行為を植福というのである。
予は単に植福といったが、植福の一の行為は自から二重の意義を有し、二重の結果を生ずる。
何を二重の意義、二重の結果というかというに、植福の一の行為は自己の福を植うることであると同時に、社会の福を植うることに当たるから、これを二重の意義を有するといい、他日自己をしてその福を収穫せしむると同時に、社会をして同じくこれを収穫せしむる事になるから、これを二重の結果を生ずるというのである。
およそ天地の生々化育の作用を助け、また人畜の福利を増進するに適当するの事を為すのは、即ち植福である。
世に福を有せんことを希う人は甚だ多い。しかし福を有する人は少い。福を得て福を惜むることを知る人は少い。福を惜むこと知っても福を分つことを知る人は少い。福を分つことを知ってても福を植うることを知る人は少い。
けだし稲を得んとすれば稲を植うるに若(し)くはない、葡萄(ぶどう)を得んとすれば葡萄を植うるに若くはない。この道理を以て、福を得んとすれば福を植うるに若くはない。
今日の吾人は古代に比し、もしくは原人に比して大なる幸福を有して居る。これは皆前人の植福の結果である。
文明ということはすべてある人々が福を植えた結果なのである。
植福なる哉、植福なる哉、植福の工夫を能くするにおいて始めて人は価値ありというべしである。
福を植うる人に至っては即ち福を造るのである。