NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

『努力論』

2日の高校生の意識調査を受けての、産経新聞の社説。
http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20060302


「■【主張】高校生の意識 『志』持つことを忘れるな」(産経新聞)
 → http://www.sankei.co.jp/news/060306/morning/editoria.htm

 財団法人「日本青少年研究所」が日本、米国、中国、韓国の高校生を対象に行った「友人関係と生活意識」の比較調査の結果、日本の高校生は勉強や成績よりも、漫画・音楽など大衆文化や、携帯電話・メールの方に強い関心を抱いていることが分かった。

 どういうタイプの生徒になりたいかという問いには、米国や中国は八割、七割が「勉強がよくできる生徒」を第一に挙げたのに対して、日本はわずか四割に過ぎず、最も多かったのは「クラスのみんなに好かれる生徒」という項目だった。「失敗を恐れず、未知なものに挑戦する生徒」や「リーダーシップの強い生徒」という項目も四カ国中最低で、覇気に乏しく、ひ弱な高校生像が浮き彫りになった。

 戦後の物の見方・考え方の一つとして、個性の尊重やら価値観の多様化やらが力を振るった。自己責任の下では何をしても自由という考え方だ。こうした考えを無批判に推し進めていけば、そこそこの人生が送れれば別に勉強に打ち込む必要などない、と易(やす)きに就き、目の前のことにしか関心を抱かぬ若者が出てきても不思議ではない。そうした意識が多数を占めることに、生命力を衰微させる国の行く末を見て取る向きも少なくあるまい。

 川の流れるように、ただ流れ流されて日を送るだけでは、人として生きる喜びが生まれるだろうか。磨かなければどんな美玉も輝かない。大志とは言わぬ。世のため人のために役に立つ人間になりたい−そういう“小志”くらいは抱きたい。そのために、力の限り努力するのが若者という時間の人生における仕事ではないのか。

 日本人は元来そういう国柄を持っていたはずだ。価値観多様化の時代ならばなおさら、若者が身を削る思いで努力することの大切さを社会全体がもう一度思い返し、再び時代のうねりとして呼び起こそうではないか。

「勉強冷めた日本 米中韓7割超…高校生意識調査」(読売新聞)
 → http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20060302ur02.htm



志を掲げ、一途に、それに向かって努力する。
そういう姿は、今は流行らないのかも知れないが.....。
ぼくの聖典にはある。

すべて「一途」がほとばしるとき、人間は「歌う」ものである。

─― 坂口安吾『ピエロ伝道者』




そんな訳で、久しぶりに幸田露伴『努力論』を読み返す。

『初刊自序』

 努力とは一である。しかしこれを察すれば、おのずからにして二種あるを観る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は当面の努力で、尽心竭力(けつりょく)の時のそれである。

 ただ時あって努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が悪いからであるか、然(しか)らざれば間接の努力が欠けて、直接の努力のみが用いらるるためである。無理な願望に努力するのは努力の方向が悪いので、無理ならぬ願望に努力して、そして甲斐(かい)のないのは、間接の努力が欠けて居るからだろう。瓜の蔓(つる)に茄子(なすび)を求むるが如きは、努力の方向が誤って居るので、詩歌の美妙なものを得んとして徒(いたず)らに篇を連ね句を累(かさ)ぬるが如きは、間接の努力が欠けているのである。

 努力は好い。しかし努力するということは、人としてはなお不純である。自己に服せざるものが何処かに存するのを感じて居て、そして鉄鞭を以てこれを威圧しながら事に従うて居るの景象がある。
 努力して居る 、もしくは努力せんとして居る、ということを忘れて居て、そして我が為せることがおのずからなる努力であって欲しい。そうあったらそれは努力の真諦であり、醍醐味である。

 努力して努力する、それは真のよいものではない。努力を忘れて努力する、それが真の好いものである。

努力論 (岩波文庫)

努力論 (岩波文庫)