NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「端午の節句」

 私たちの春は分散してしまい、宗教と習俗とは緊密な結びつきをもたず、今日では、正月がもっとも大きな国民的祭日となっている。が、太陽暦の正月は、春の祝いとして、年季のよみがえりとして、かならずしも適当な時期ではない。正月ををすぎて、私たちは古き年の王の死を、すなわち、厳寒を迎えるという矛盾を経験する。しかも、そういう矛盾について、ひとびとは完全に無関心である。アスファルトやコンクリートで固められた都会生活者にとって、古代の農耕民族とともに生きていた自然や季節はなんの意味ももたないと思いこんでいる。文明開化の明治政府が、彼岸を春秋の皇霊祭としたのは、天皇制確立のためではあったが、今日の似而非(エセ)ヒューマニストよりは、まだしも国民生活のなかに占める祭日の意義を知っていたのだ。ヒューマニストたちにとっては、雛祭も端午の節句も、季節とは無関係に、ただ子供のきげんをとるための「子供の日」でしかない。つまり、レクリエイションなのである。が、雛祭より「子供の日」のほうがより文化的であり、知的であると考えるいかなる理由もありはしない。が、私たちが、どれほど知的になり、開化の世界に棲んでいようとも、自然を征服し、その支配下から脱却しえたなどと思いこんではならぬ。私たちが、社会的な不協和を感じるとき、そしてその調和を回復したいと欲するとき、同時に私たちは、おなじ不満と欲求とのなかで、無意識のうちに自然との結びつきを欲しているのではないか。

―― 福田恆存著 (『人間・この劇的なるもの』


『こよみのページ』 http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0727.htm
端午の節句/子供の日』 http://www.hinamatsuri-kodomonohi.com/Frame-1.html

人間・この劇的なるもの (中公文庫)

人間・この劇的なるもの (中公文庫)