「瘠我慢の説」
賊人として斬首される近藤勇。
この後、会津の人々も、斗南藩として改編され本州最果ての地に追い遣られ、困窮の生活を強いられることとなる。
歴史は常に勝者によって作られる。
敗者である近藤らを取り上げた大河ドラマ『新選組!』の意義は大きい。
福沢諭吉は自著『瘠我慢の説』の中で、廃滅する幕府を支えることの重要性を説きます。
幕府を見捨てることは、大病の父母を見捨てることと同じである。
死ぬことがわかっていても見捨てる訳にはいかない。
人間には“瘠我慢”が必要な時もあるのである。
「廃滅の数すでに明(あきらか)なりといえども、なお万一の僥倖を期して屈することを為さず、実際に力尽きて然る後にたおるるはこれまた人情の然らしむるところにして、その趣を喩えていえば、父母の大病に回復の望みなしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当てを怠らざるがごとし。これも哲学流にていえば、等しく死する病人なれば、望みなく回復を謀るがためにいたずらに苦病を長くするよりも、モルヒネなど与えて臨終を安楽にするこそ智なるがごとくなれども、子と為りて考うれば、億万中の一を僥倖しても、故(ことさら)に父母の死を促すがごときは、情において忍びざるところなり。」
「左(さ)れば自国の衰頽(すいたい)に際し、敵に対して固(もと)より勝算なき場合にても、千苦万苦、力のあらん限りを尽くし、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう瘠我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単(ひとえ)にこの瘠我慢に依(よ)らざるはなし。ただに戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても瘠我慢の一義は決してこれを忘るべからず。」
「そもそも維新の事は帝室の名義ありといえども、その実は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外ならず。この時に当りて徳川家の一類に三河武士の旧風あらんには、伏見の敗余江戸に帰るもさらに佐幕の諸藩に令して再挙を謀り、再三挙ついに成らざれば退いて江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖し、いよいよ策竭(つく)るに至りて城を枕に討死するのみ。すなわち前にいえるごとく、父母の大病に一日の長命を祈るものに異ならず。かくありてこそ瘠我慢の主義も全きものというべけれ。」
『大河ドラマ「新選組!」』 http://www3.nhk.or.jp/taiga/
明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫 (675))
- 作者: 福沢諭吉
- 出版社/メーカー: 講談社
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