学問をするには分限を知ること肝要なり
学問をするには分限(ぶんげん)を知ること肝要なり。人の天然生まれつきは、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。すなわちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。自由とわがままとの界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬(たと)えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、たとい酒色に耽(ふけ)り放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、けっして然(しか)らず、一人の放蕩は諸人の手本となり、ついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりとも、その罪許すべからず。
一日一言「心は隠すことができない」
二月一日 心は隠すことができない
一事が万事、何気なく言ったひと言や、ちょっとした行動に、その人の性格がよく表れるものである。人はそれを隠そうとしてもできるものではなく、慎むべきことは、言動よりも常に心を正常に保つよう心がけることである。
さし出る鉾先折れよ物毎に
己が心を金槌として <鈴木正三>
心とて人に見すべき色ぞなき
たゞ行と言の葉に見ゆ
漱石先生に曰く、
真面目というのはね、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君という一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。
『人間・この劇的なるもの』
今日、私たちは、あまりに全体を鳥瞰しすぎる。いや、全体が見えるといふ錯覚に甘え過ぎてゐる。そして、一方では、個人が社会の部分品になりさがつてしまつたことに不平をいつてゐる。
── 福田恆存(『人間・この劇的なるもの』)