NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「スポーツ好きの彼はなぜ投擲を描いたか 」

小林秀雄とは何者だったのか? 沢木耕太郎による作家論」(現代ビジネス)
 → https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58600

ノンフィクション作家・沢木耕太郎氏はこれまで何人もの作家と出会い、「対象」としても徹底して向き合ってきた。このたび沢木氏の作家論集『作家との遭遇 全作家論』(新潮社)が刊行された。その中から、小林秀雄に関する文章を特別公開!

虚空への投擲
小林秀雄にとっての「スポーツ」
小林秀雄の文章には、香具師の啖呵のようなところがあり、眼で読んだだけのはずなのに、いつまでも耳に残っているようなものが少なくない。「様々なる意匠」にも、「Xへの手紙」にも、「ドストエフスキイの生活」にも、「モオツァルト」にも、「ゴッホの手紙」にも、そうした文章はある。

しかし、私が小林秀雄という人物について考えるとき、まず思い浮かべるのは、「スポーツ」と題された短いエッセイの、冒頭の部分である。

《私は、学生のころから、スポーツが好きだった。身体の出来が貧弱だったから、スポーツ選手にはなれず、愚連隊の方に傾き、いつの間にか、文士なぞになってしまったが、好きなことは今でも変らない。先年も、里見紝氏の還暦のお祝いに野球大会があったが、野球と聞くと、ノコノコ出かけて行く。三十年もボールを手にしたことがないなど、念頭にないのである。石川達三がヘロヘロ球を投げる。大体、ストライクもボールも選ぶ値打ちのあるような球ではなし、打てばいいんだろ、と第一球から、つづいて三度振回したが、球にかすりもしない。見ていた奴が、バットとボールとが一尺は違っていたと言った。その他、なにやかや、つまらぬことばかりやって、珍プレー賞と書いたウィスキーをもらった。こんなことを今いっても、だれも信用しそうもないが、三十年前には、巨人の水原監督と一緒に、第一回都市対抗戦で、神奈川県代表の鎌倉軍に参加し、台湾代表の台北軍と、神宮球場で戦ったこともある。なさけない次第である》

照れながら、滑稽さを装いながら、自らのスポーツ体験をどこかで自慢したいという稚気のようなものがほの見える。たぶん、このようなところに、批評の世界で神格化される以前の小林秀雄がいるのだろう。いや、こういう稚気の存在が神格化される際の不可欠の要素だったかもしれない。

友人だった石丸重治の回想に「小林秀雄は割合に運動が上手で」という言葉がある。もしこれを「割合に」という部分に重点を置いて理解すれば、小林秀雄には必ずしも抜群の運動能力があったわけではないということになる。だが、小林秀雄には自身の運動能力、ないしは体力というものに対する強い自信があったように思われる。もしかしたら、批評における香具師の啖呵に似た断定的な口調を支えたのは、案外にそうした肉体的なものにおける自信だったのではないかという気がする。

実は、これとほとんど同じトーンの文章が、同じ東京生まれの文士である吉行淳之介の、「桜の花がきれいだよ」というエッセイの中にもある。

《車の運転をはじめてから、十二年経つ。およそ運動神経と無縁な人間とおもわれているらしく、私の動かしている車に乗っているくせに、「信じられない」と言う人物が多い。旧制高校のときには、卓球部に入って、一年生のときレギュラーになった。東日本インターハイで団体優勝をしたとき、ウイニング・ボールのスマッシュをきめた選手は、私である》

どちらにも、都会で生まれ育った者に独特の、ソフィスティケートされた自意識とでもいえるようなものの存在がうかがえ、逆にその部分に他の文章には見られない人間味が感じられもする。もちろん、これを単に都会的と言ってしまうと、関西的な都会人の視点からは妙に幼く感じられるかもしれず、そうだとすると、これはやはり「東京に生まれ育った者に独特の」というくらいに止めておくべき性質のものなのかもしれない。

ところで、小林秀雄にとって「好きだった」というスポーツはどのような意味を持つものだったのか。

小林秀雄にとってスポーツは、まずなにより「する」ものとして存在していた。

若いころに野球があったことは「スポーツ」の中で述べられているが、まず中学時代に登山が現れたことが「山」というエッセイに記され、友人と三人で雲取山に行き、あやうく遭難しかけたことが書き留められている。さらに、当時としてはかなり早かったと思われるスキーが登場する。「カヤの平」というエッセイでは、ビギナーの時期に苛酷な山スキーに参加し、その帰途、行方不明者として捜索されてしまった失敗談が書かれている。そうした「する」ものとしてのスポーツに対する関心は、やがてゴルフに集中していくようになるが、それについては「ゴルフ随筆」などに面白おかしく書かれることになる。

これらのエッセイで扱われているスポーツは、「好きだった」という以上のものではない。それらの文章には、スポーツの先達や同行者としての深田久弥今日出海などが出てくるが、特に文学的な意味のあるものではなく、一種の冒険譚や滑稽譚の域を出ることはない。「する」ものとしてのスポーツを通して、文学的な何かに到達したり、把握したりという気配はうかがえないのだ。

だが、小林秀雄は、「する」ものとしてのスポーツに関する文章だけでなく、「見る」ものとしてのスポーツに関する文章もいくつか残している。「スポーツ」の中に《スポーツを見世物と見做して昂奮しているファンというもののかもし出す空気は、私はあんまり好きではない》という一節があるが、「見る」ものとしてのスポーツについて書かれた文章の方に、文筆家としての小林秀雄の関心に重なる、より深い省察がちりばめられているように私には思える。


なぜ「投擲種目」だったのか
スポーツを「見る者」としての小林秀雄が残している文章の多くはオリンピックに関してのものであり、それは当然のことながら映像を通してのものということになる。

オリンピックの映像、それは映画とテレビということになるが、特徴的なのはそこで言及されているのが常に陸上競技だということである。

昭和十五年、小林秀雄は「オリムピア」というエッセイを書いている。ベルリン大会を描いたレニ・リーフェンシュタールの映画『オリンピア』を見てのものだ。

砲丸投げの選手が、左手を挙げ、右手に握った冷い黒い鉄の丸を、しきりに首根っこに擦りつけている。鉄の丸を枕に寝附こうとする人間が、鉄の丸ではどうにも具合が悪く、全精神を傾けて、枕の位置を修整している、鉄の丸の硬い冷い表面と、首の筋肉の柔らかい暖い肌とが、ぴったりと合って、不安定な頭が、一瞬の安定を得た時を狙って、彼はぐっすり眠るであろう、いや、咄嗟にこの選手は丸を投げねばならぬ。どちらでもよい、兎も角彼は苦しい状態から今に解放されるのだ。解放される一瞬を狙ってもがいている》

さらにそれからほぼ十年後の昭和二十四年、「私の人生観」の中で、昭和二十三年開催のロンドン大会を撮った記録映画について触れ、次のように述べている。

《カメラを意識して愛嬌笑いをしている女流選手の顔が、砲丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者の様な顔に変ります。(中略)この映画の初めに、私達は戦う、併し征服はしない、という文句が出て来たが、その真意を理解したのは選手達だけでしょう。選手は、自分の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そして遂に征服する、自己を。かような事を選手に教えたものは言葉ではない。凡そ組織化を許されぬ砲丸を投げるという手仕事である、芸であります。見物人の顔も大きく映し出されるが、これは選手の顔と異様な対照を現す。そこに雑然と映し出されるものは、不安や落胆や期待や昂奮の表情です。投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらい醜い顔を作らねばならぬか。彼等は征服すべき自己を持たぬ動物である。座席に縛りつけられた彼等は言うだろう、私達は戦う、併し征服はしない、と。私は彼等に言おう、砲丸が見付からぬ限り、やがて君達は他人を征服しに出掛けるだろう、と。又、戦争が起る様な事があるなら、見物人の側から起るでしょう。選手にはそんな暇はない》


自分の投げるべき「鉄の丸」
だが、この「オリムピア」と「私の人生観」と「オリンピックのテレビ」の三つの文章を時代順に読み進めていくと、同じ投擲種目について書きながら、小林秀雄の眼の位置が微妙に変化していることがわかってくる。最初の「オリムピア」では投擲直前の選手の体の一部と砲丸や槍のクローズアップだったものが、次の「私の人生観」では投擲する瞬間を含めた全身像が描かれることになり、さらに「オリンピックのテレビ」ではフィールドの外から競技の全体を眺め渡しているという印象の文章に変化していく。つまり、対象に寄っていたレンズが徐々に引きながら俯瞰していくというようになっているのだ。それは、小林秀雄の投擲種目に対する関心の在り方の変化をあらわしているように思える。

まず、小林秀雄における投擲種目がどのようなものだったか。それを理解するための接線となるような文章が「オリムピア」の中にある。

《併し、考えてみると、僕等が投げるものは鉄の丸だとか槍だとかに限らない。思想でも知識でも、鉄の丸の様に投げねばならぬ。そして、それには首根っこに擦りつけて呼吸を計る必要があるだろう。単なる比喩ではない。かくかくと定義され、かくかくと概念化され、厳密に理論付けられた思想や知識は、僕等の悟性にとっては、実に便利な満足すべきものだろうが、僕等の肉体にとってはまさに鉄の丸だ。鉄の丸の様に硬く冷く重く、肉体は、これをどう扱おうかと悶えるだろう、若し本物の選手の肉体ならば。無論、初めから選手などにならないでいる事は出来る。思想や知識の重さを掌で積ってみる様な愚を演じないでいる事は出来る。僕等の肉体は、僕等に極めて親しいが又極めて遠いのだ。思想や知識を、全く肉体から絶縁させて置く事は出来る。大変易しい仕事である》

このすぐあとに、小林秀雄は「ありの儘の言葉を提げて立っている」詩人こそが「言葉の選手」となるという、詩人への賛仰に近い思いを表白することになる。詩人の言葉こそが「鉄の丸」だと。

ここには、自分の投げるべき「鉄の丸」について思い煩っている三十八歳の小林秀雄がいる。

投擲の選手が投げる。その行為のいかにシンプルで確かであることか。彼らの手の内にあるものは「砲丸」であり、「槍」であり、「円盤」という確かなものである。それに比べたとき、自分が手にしているもののいかに曖昧で脆弱であることか。

恐らく、小林秀雄は投擲選手の砲丸や槍や円盤のようなシンプルで確かなものを手にしたかったのだ。しかし、批評という「ヤクザ」な世界ではそのようなものを手にすることはできない。自分には詩人の言葉のような「鉄の丸」が存在しない……。

ところが、稀に「芸術」という同じ「ヤクザ」な世界で、奇跡のように投げるべき砲丸や槍や円盤を手にしてしまう人がいる。それを天才という。ランボードストエフスキーモーツァルトゴッホ……。小林秀雄にはそうした「奇跡の人」へのほとんど憧憬に近いものが根底にあるような気がする。彼らが投げようとした砲丸や槍や円盤を見いだし、彼らがそれらをどのように首根っこにこすりつけ、呼吸を計り、いかに投擲したか。もちろん、陸上競技のように投げられたものの距離が測られ、記録として残るということはないにしても、つまり投げられたまま虚空に消えてしまうにしても、彼らの砲丸や槍や円盤が空に描く軌跡だけは幻視することができる。

しかし、やがて、小林秀雄はそうした天才たちのそうした投擲を描いているうちに、「鉄の丸」が自らの手の内に入っていることに気がつく。いや、その「鉄の丸」を自分が投擲していることを発見し、そのことに自信を抱くようになる。それが四十七歳のときに書かれた「私の人生観」における《投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらい醜い顔を作らねばならぬか》という言葉になるのだ。この言葉は、当然のことながら小林秀雄自身が投げるべき砲丸を持っていることを前提としている。

小林秀雄が描いた人たちは、私にはすべて虚空への砲丸や槍や円盤の投擲者に見える。そして、小林秀雄もまた同じような投擲者であったように思える。つまり、その天才たちが小林秀雄の砲丸であり槍であり円盤であったと。

レニ・リーフェンシュタールの映画に触発された「オリムピア」の小林秀雄には、それらのものを確実に握りたいというかすかな焦燥が透けて見えるようなところがある。だが、東京大会に触れて書かれた「オリンピックのテレビ」では、すでにその焦燥はなく、解説者の言葉に耳を傾けつつ、ただスポーツを「見る者」になっている。それもある意味で当然のことなのであろう。そのとき、小林秀雄は六十二歳になっていた。ここには、「虚空への投擲者」であることをやめて久しい小林秀雄が存在している。

そういえば、「本居宣長」の連載が始まるのはこの文章が書かれた翌年からである。そこにおける本居宣長は、すでに砲丸や槍や円盤としての天才ではなくなっているのだ。

作家との遭遇 全作家論

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