NAKAMOTO PERSONAL

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道徳は多数決で決まる

「道徳とは社会の多数の意見で決まるものだ」(ライフハッカー
 → https://www.lifehacker.jp/2017/11/107420.html

あの世を舞台にしたコメディドラマの『グッド・プレイス』は、道徳上のジレンマをテーマにしています。現実的な哲学に基づいた教訓を教えていて、ちょっとした道徳哲学の授業といった感じです。

この番組から学べる重要な教義をいくつかご紹介しましょう。


「善良さ」とは後天的に身につけるものであり、訓練により獲得すべきもの

「善良である」とはどういうことでしょうか? 生まれつきの悪人は存在するのでしょうか。第1話のネタばれになりそうですが、Netflixの予告にも書いてあることなので、まあいいでしょう。クリステン・ベル演じるエレノアは死後の世界で目を覚まします。

彼女は生前、まじめに生きていたので、「グッド・プレイス」に来たのだと告げられます。でも、実はエレノアが「グッド・プレイス」に来たのは手違いで、本当はそこにいるべき人間ではありません。生前の彼女はいわゆる「バッド・プレイス」に属するはずのひどい人間だったのです。彼女は何とかごまかして「グッド・プレイス」に居座ろうとしますが、自分が偽物であることがばれないように戦略をたてる必要があることに気づきます。

幸いにも、彼女はソウルメイトのチディに助けてもらえることになりました。生前、倫理学の教授だったチディのプライベートレッスンを通して、人は「善良になる」ことを自分で意志的に選択するのだということをエレノアは学びはじめます。アリストテレスの言葉にもある通り、人間は自発的に自分の性格を選んでいて、生まれつき「善」である人も「悪」である人もいないのです。

自己中心的だったり思いやりがなかったりする性格も自分で変えることができるだけでなく、自分の生き方を変えて他人に道を譲ることもできるのだとチディは説明します。そういう変化は一朝一夕にはできませんが、訓練し続ければ「善良」になることを習得できます。 他人に対して善良に振る舞うことは習慣のようなものであり、実践を重ねることで完璧に近づけます(とは言え、人間は誰も完璧にはなれませんが)。


「良い」ことをする人が必ずしも良い人間ではない

『グッド・プレイス』の劇中では、複雑な点数制で死後の世界が決まります。 「良い」行ないをすると点数がプラスされ、「悪い」ことをすると、減点されます。 死んだとき持っている点数の合計点で、『グッド・プレイス』に行くか『バッド・プレイス』に行くかが決まります。

ドラマとしての『グッド・プレイス』は、人生を点数制のビデオゲームのように感じさせるところもありますが、番組を見ていくうちに道徳性は点数のプラス・マイナスのように白黒がはっきりしているわけではないことがわかってきます。あるとき、エレノアは他人のためにドアをおさえてあげることで点数を稼ごうとします。

でも、心から人に親切にしたくてすることでないと、得点できないのだということがすぐにわかります。 彼女の唯一の目標は、『グッド・プレイス』にいられるだけの点数を貯めることですが、これは本質的には利己的な理由です。果たして「利己的な理由で『良い』ことをしても、それはやはり『良い』行ないなのでしょうか。

シリーズが進行するにつれて、この疑問はそれぞれの登場人物を通して繰り返し問いかけられます。 チディは倫理学を学ぶ人生を生きたかもしれませんが、「善良さ」の追求について熟知している人なら「善良」だと言えるでしょうか? タハニは慈善事業に一生を捧げましたが、すべては完璧に近い姉を追い抜きたいという動機でしたことでした。 彼女は「良い」ことをたくさんしましたが、果たして彼女は「良い」人でしょうか? 「良い」行ないをする努力は大切です。でも、「良い」行いをするたびに、本当は誰のためにしているのか毎回自問してみましょう。


善悪は見方によって変わる

さて、私がこの文章を書きながら 常に「良い」と 「悪い」という言葉を「」で囲んでいることにお気づきかもしれません。 それは、「良い」も「悪い」も主観的なことなので、定義することが難しいからです。 あなたが「良い」と思うことも、視点が異なる人たちから見ると「悪い」ことかもしれません。

『グッド・プレイス』は常にその点を取り上げており、これは、絶対的な「正義」と「悪」があると言われて育った人は特に真剣に取り組むべき問題です。 番組の視聴者は徐々に道徳とは社会の多数の意見で決まり、帰属する社会の輪によって異なることがあることを理解するようになります。

劇中でチディがたびたび説明しているように、ほとんどの倫理観は「グレーの領域」にあり、そこでは人々の意図、話の流れ、その他のさまざまな要因により、物事の受け取られ方が変わります。

あるとき、チディは、5人を救うために1人を犠牲にするかどうか決断しなければならないというあの有名な「トロッコの思考実験」を試みなければならなくなります。1人だけ犠牲にして、5人が助かるようにすることが、一般的には「良い」選択です。しかし、現実世界では常に変数があります。

もしその犠牲になる人が子供だったら? もしその5人がナチスの制服を着ていたら? もしその人たちの中に知り合いがいたら? もし何もせず手をこまねいていたら? 傍観者でいるのは「良い」ことでしょうか? その実験が現実になると、倫理学の研究に一生を捧げたチディもお手上げになります。思考実験には「道徳的に絶対正しい」という答えはなく、現実世界でもそれは同じです。

「違う。殺人などは絶対悪だ」と思う人もいるでしょう。でも、それではこのドラマが訴えようとしていることを理解していません。グッド・プレイスの劇中で行なわれる道徳性の議論は、法律や宗教に見られるような基本的な道徳傾向を定義し直すことが目的ではなく、立ち位置を変えて考えていく方法を学ぶことです。 巧妙なジョークと馬鹿馬鹿しいプロットのひねりを通して、この番組は視聴者に、道徳の曖昧さをより深く理解することを促し、物事の本質を見極めなければならないことをさりげなく教えています。


翁にも曰く、

人は言論の是非より、それを言う人数の多寡に左右される。

── 山本夏彦『何用あって月世界へ』