NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

遅れた飛行機内での熱唱は「美談」なのか?

「哲学者怒る『日本の公共空間はうるさすぎだ』 遅れた飛行機内での熱唱は『美談』なのか?」(東洋経済
 → http://toyokeizai.net/articles/-/185811

これまで政治家のウソをテーマに連載を書いてきましたが、もうこれをテーマにしてもむなしくなるだけですので、この辺でやめにしようと思いますが、最後に1つだけ取り上げると、国会閉会中審議のはじめに神妙な顔つきでなした安倍首相の「お詫び」はとても感じの悪いものでした。自分の傲慢な姿勢のみ反省して、傲慢な姿勢の背景にある真実を追求する要求には一切答えないという「お詫び」でしたから。


お詫びからは「ソン・トク」ばかりが透けて見える
一般に、お詫びしても実際の損失が何もないような場合、お詫びをすればトクだからという計算だけが透けて見えて、言葉はからからと滑っていきます。政治家だけではない。官庁や会社や病院などの、公式的お詫びはみんな同じであって、いまお詫びすればトクだから、いまお詫びしなければソンだから、という功利的計算のみ見えてしまう。

私は、よって、人間関係において、いかに相手から損害を受けたとしても、謝罪を要求することはほとんどなく、自分も真意の伴わない謝罪はしたくない。謝罪したほうがトクであることがわかっていればいるほど、謝罪するのには抵抗が伴います。人間は、そんなにすぐに自らの過去の行為を「反省する」ものでしょうか? 私の70年にわたる人生において、そうではないと断言できます。

こう言い換えたほうがいいかもしれない。われわれは、相手の足を思わず踏んでしまったとか、相手の名前を間違えてしまったとか、待ち合わせで相手を待たせてしまったとか……相手に軽い損害を与えたときは「心から」反省する。しかし、ある人を練りに練って振り込め詐欺でだました場合、練りに練って保険金目当てで殺してしまった場合などは、逮捕後ただちに反省するほうがおかしい。反省するとしたら、「捕まったこと」に対してではないでしょうか?

このことは、誰でも知っているのに、社会ゲームとして、被害者は直ちに加害者に「反省」を求め、それがないと「反省の声さえない」と怒り、では、と加害者が反省すると、今度は「まったく誠意が見られない、本当に反省しているとは思われない」と追及するのです。いわゆる「慰安婦問題」において、韓国(政府・国民)が、日本(政府・国民)の反省がまだ足りない、まだ足りない、まだ足りない……と言い続けているのも、同じ構図です。

夫婦間でも国家間でも、加害者に「真の反省」などほとんどありえないのですから、それを要求することはむなしいように思われますが、被害者はこの真実を知っていても、加害者がこの真実を語ることを許さない。加害者は、1点の混じり気もない絶対的に真の反省に至らなければならない。その結果、加害者は被害者にとって永久に反省が足りないということになり、被害者は永久に相手を責め続けることになるわけです。

この話は、ここまで。最近のニュースでカチンときたのは、もう1つありますが、たぶんほとんどの人が問題にもしないことでしょう。それは、8月20日に札幌発大阪行きの全日空機の出発が遅れた際に、乗り合わせていた歌手の松山千春さんが乗客のイライラを解消するために、客室乗務員のマイクで「大空と大地の中で」を歌った、という話。

翌朝のワイドショーでは、このエピソードを取り上げて、キャスターなどみな絶賛していましたが、私は賛成できません。こうした「騒音」については、30年以上も闘い続けましたが、ほんとうにこれほどむなしい闘いはなかった。相手は、私の意見に反対なのではなく、私が何を言いたいのかまったく意味が通じないのです。


日本の公共空間に溢れる音、音、音……

私は広い意味における公共空間(飛行機の中も含めて)では、なるべく音を発しないことが「正しい」と思っている。いわゆる大声でのおしゃべりや個人的に音楽を流すこと(これは多くの人が嫌っているからいいでしょう)のみならず、その空間を管理している責任主体(この場合は全日空)も、むやみに「音」を流してはならない。飛行機の中ですと、安全確認やさまざまな機内設備の案内や連絡などはいいとして、しつこいマイレージなどの宣伝放送も、機内販売の宣伝放送もダメ。すなわち、なるべく無音に保ち、その空間をいかに音で彩るかは各乗客に任させる。

これは、飛行機の機内では、ほぼ理想的に保たれています。座席の前に据えられているモニター画面を見る場合でもレシーバーが配られ、BGMもありません。そこで、眠りたい人は眠り、読書したい人は読書し、音楽を聴きたい人はイヤフォンを利用する。

しかし(今回は空港内に限りますと)、飛行機の機内以外ではこうはいきません。空港ビルのあらゆる店には音楽や宣伝放送が流れ、ダイナースなどの待合室にもBGMが流れ、エレベータには「1階です、こちらのドアが開きます」、エスカレータには「エスカレータにお乗りの際、手すりにつかまり……」という金属的なテープ音が入る。トイレに近づくと、「右が男子トイレ、左が女子トイレです」という放送が入る。もちろん、銀行のATMは「いらっしゃいませ、毎度ありがとうございます」というキンキラ声で迎えてくれる。

そして、搭乗口では、液体や危険品の持ち込みを注意する放送が流れ、出入国審査の場所では、(場合によって)「日本人は日本人と書いてある窓口にお並びください」という放送が流れ、空港内の動く歩道には「まもなく終点です、ご注意ください」というテープ音が流れ、帰国の際に、ベルトコンベア上を流れてくる荷物を待っているあいだずっと、「入国カードをご記入ください、入国の際にはパスポートと一緒に入国カードを示してください」という放送が流れる

実は、こうした「あああせよ、こうせよ」という放送が、もっともっとあるのですが、このすべてがヨーロッパの空港にはないのです。


ヨーロッパで注意喚起の放送がない理由

これは、趣味の問題ではなく、思想の問題でしょう。日本人は、老人、旅慣れない人、不注意な人など、「弱者」に視点を合わせ、注意放送によって彼らを救おうとする。

しかし、ヨーロッパでは、そうではなく、そういう「弱者」は自分で努力して事故や不注意を防ぐようにすべきだ、という思想が徹底している。キリスト教の思想が行きわたったヨーロッパで、弱者に対するこうした注意放送(看板)が皆無なのです。

それ以外にも、ヨーロッパには、床に敷き詰められた盲人用の黄色いポチポチがどこにも(電車のホームにも)ないし、障害者用の男子用トイレの鉄パイプもありません(私はこれまでこれを使っている人を見たことがない!)。じゃ、どうするのか? 近くにいる個人がそのつど助ければそれでいい。日本では、これが行きわたっていないから、放送だらけになるのです。

わが国では、周囲の盲人や車いすの人をよく見ず、率先して彼らを助けることをせず、みんなこうした観念的放送を観念的弱者のために必要だと思い込んでいる。そこで、私が「こういう放送は必要ない」と抗議すると、まったく意味がわからないということになるわけです。

次に、あえて言いにくいことを言いますが、これほどずっと前からありとあらゆる仕方で注意しているのに、それでも振り込め詐欺にかかる人は、(犯人が悪いのは当然として)その人も悪いのだと思います。にもかかわらず、パトカーで「振り込め詐欺に注意しましょう!」という大音響をまき散らして町内を走り周り、地域によっては、防災行政無線で注意を勧告することもあり、警察官が銀行のATMのところに待機していることもある。ほとんどの人は振り込め詐欺にかからないのですから、そういう人にとっては、騒音(耳障り)以外の何ものでもないのですが、現代日本ででは、こういう「思想」がまったく通じないのです。

私はこのことをかつて「優しさの暴力」と呼んで、そうした単行本も書きましたが、わずかの賛同者は得られましたが、「日本人を目覚めさせる」ことはできなかった。放送を流す側も聞く側も「善意」と確信しているのですから、それをなくすのは大変なことなのです。

というわけで、松山千春さんの「善意」ですが、少数かもしれないけれど。迷惑に思った人は必ずいるはず。私など松山千春って聞いたことがある、という程度の知識しかなく、彼の歌は何も知らない。それなのに、突如その歌を「聞かされる」ことに大いなる苦痛を覚えたことでしょう(私がその場に居合わせていたら、あとで必ず客室乗務員に訴えたと思います)。

松山千春さんがどのくらい有名なのか知りませんが、冷静に考えてみても、同じ時間に政治家が政見を述べても宗教家が講話をしてもブーイングが出るでしょうし、(そうでなくても)嫌がられるでしょう。まあ、毎日新聞によると、松山さんが、「出しゃばったことしているなと思うけど」と語っていたらしいことを知って、ちょっと救われましたが……。