「民主主義」をやめることから始めよう
「デモクラシーを守るためにこそ、『民主主義』をやめることから始めよう[橘玲の日々刻々]」(ダイヤモンド・オンライン)
→ http://diamond.jp/articles/-/93212
近刊の『「リベラル」がうさんくさいのには理由がある』(集英社)で、「『民主主義』をやめることから始めよう」と書いた。ほぼ同時期に発売された小林よしのり氏の『民主主義という病い』(幻冬舎)でも、民主主義をやめることが提言されている。
小林氏は、きわめて民主的なワイマール憲法からヒトラーが誕生したことや、戦前の日本で大衆やマスメディアの熱狂から軍部が台頭し、無残な戦争に突き進んだ歴史から、「大衆民主主義」は「愚民民主主義」であり、国民を幸福にしない制度だと断ずる。それに代わる提案は、「選挙権も被選挙権も試験を受けて合格した者だけが獲得し、民主制に参加できるようにすべき」という「エリートの『寡頭制』」で、これによって「『公』の体現者たる天皇のもとで、君民一体の『公共性』を基にした政治を目指せばよい」という(小林氏はこれを「公民主義」と呼ぶ)。
政体を根本的に書き換えようとする小林氏の大胆な提言に比べれば、私の主張はきわめてささやかなものだ。民主的な選挙によって「主権者」である国民の代表を選ぶ政治の枠組みを前提として、「デモクラシー(民主政)」を守るためにこそ「民主主義」という“誤訳”をやめよう、といっているだけだからだ。
公選法が改正され、7月10日の参院選で18歳から投票できるようになる。それに合わせてメディアや有識者が若者向けの「政治教育」の重要性を説いているが、じつは日本における「政治」の議論には誤訳がもたらす根本的な欠陥がある。
民主主義はデモクラシーの訳語だが、democracyは神政(テオクラシーtheocracy)や貴族政(アリストクラシーaristocracy)と同じく政治制度のことだから、「民主政治」「民主政」「民主制」などとすべきで、「民主主義democratism」とは別の言葉だ。リベラルデモクラシーは「自由民主主義」と訳されるが、これもイズム(主義)ではなく、「自由な市民による民主的な選挙によって国家(権力)を統制する政治の仕組み」のことだ。
この誤訳がなぜ問題かというと、「制度」と「主義」を混同することで、「(リベラルデモクラシーという)制度の枠内で異なる政治思想(主義)が対立する」という政治論争の基本がわからなくなってしまうからだ(念のためにいっておくと、小林氏はこの問題を正しく認識している)。
この誤訳についてはこれまで何度か書いてきたが、投票権を得て政治について考えようという若いひとたちには大事なことなので、ここであらためて説明しておきたい。
「正義」とはなんなのか?
政治思想というのは、どうすれば「正義」にかなった社会を実現できるかを考えることだ。正義はjusticeの訳で、「Justにすること」すなわちものごとを釣り合いのとれた状態に維持することをいう。――ついでにいっておくと、宗教的な悪であるevilの反対語はgood(善)で、悪を滅ぼすのは「正義の味方」ではなく「善の味方」でなくてはならない。また道徳的な善にはright(正さ)という言葉がある。それに対して法律用語としてのjusticeは宗教や道徳から距離を置き、適切な(釣り合いのとれた)法の制定と裁判の仕方を論じることだ。
それでも私たちは、直感的に、正義と不正義を見分けることができる。そして不正義に対し、はげしい怒りの感情を持つ。このことは、正義がやはり感情によって支えられていることを示している。それをここでは「正義感覚」と呼ぼう。
この正義感覚は、国籍や人種、民族や宗教、性別などを問わずすべてのひとに共有されている。なぜなら喜びや悲しみなど、すべての感情は長い進化の過程のなかで脳に埋め込まれた基本プログラム(OS)だからだ――これが現代の進化論の基本的な考え方だ。
「正義感覚」にはどのようなものがあるのだろうか 。フランス革命はこれを、「自由」「平等」「友愛」の三色旗に象徴させた。
自由とは「なにものにも束縛されないこと」だが、ジョン・ロックに始まる政治思想では私的所有権こそが自由の基盤だとされた。領主が農地を勝手に取り上げてしまうようでは、人民は奴隷として生きていくほかはない。だからこそ、私的所有権を否定したマルクス主義は「自由の敵」なのだ。
平等というのは、すべてのひとが、ひとであるというだけで人権を持っているという思想だ。人権は究極の権利なので、人種や性別、国籍や宗教のちがいによって差をつけることは許されない。
友愛とは、理想のためにちからを合わせてたたかう仲間(共同体)のことだ。集団である以上、そこにはリーダーを頂点とする階層(ピラミッド型)組織がつくられるだろう。フランス革命では、こうした組織は伝統や宗教、暴力や恐怖ではなく、友情(友愛)によって築かれるべきだとされた。――もっともこれはあくまでも理想で、近代社会では組織の拘束は自由な契約によってのみ正当化される。
私たちは「自由」「平等」「共同体」という正義感覚を共有しているが、それと同じ「正義」をじつはチンパンジーも持っている。このことは次のような実験で、動物行動学者によって繰り返し確認されている。
チンパンジーの社会は、アルファオス(かつては“ボスザル”と呼ばれたが、最近は“第一順位のオス”の意味でこの言葉が使われる)を頂点とした厳しい階級社会で、下っ端(下位のサル)はいつも周囲に気をつかい、グルーミング(毛づくろい)などをして上位のサルの歓心を得ようと必死だ。
そんなチンパンジーの群れで、順位の低いサルを選んでエサを投げ与えたとしよう。そこにアルファオスが通りかかったら、いったいなにが起きるだろうか。
アルファオスは地位が高く身体も大きいのだから、下っ端のエサを横取りしそうだ。だが意外なことに、アルファオスは下位のサルに向かって掌を上に差し出す。これは「物乞いのポーズ」で、“ボス”は自分よりはるかに格下のサルに分け前をねだるのだ。
このことは、チンパンジーの世界にも先取権があることを示している。序列にかかわらずエサは先に見つけたサルの“所有物”で、ボスであってもその“権利”を侵害することは許されない。すなわち、チンパンジーの社会には私的所有権がある。
二つ目の実験では、真ん中をガラス窓で仕切った部屋に2頭のチンパンジーを入れ、それぞれにエサを与える。
このとき両者にキュウリを与えると、どちらも喜んで食べる。ところがそのうちの1頭のエサをリンゴに変えると、これまでおいしそうにキュウリを食べていたもう1頭は、いきなり手にしていたキュウリを投げつけて怒り出す。
自分のエサを取り上げられたわけではないのだから、本来ならここで怒り出すのはヘンだ(イヌやネコなら気にもしないだろう)。ところがチンパンジーは、ガラスの向こうの相手が自分よりも優遇されていることが許せない。
これはチンパンジーの社会に平等の原理があることを示している。自分と相手はたまたまそこに居合わせただけだから、原理的に対等だ。自分だけが一方的に不当に扱われるのは平等の原則に反するので、チンパンジーはこの“差別”に抗議してキュウリを壁に投げつけて怒るのだ。
三つめの実験では、異なる群れから選んだ2頭のチンパンジーを四角いテーブルの両端に座らせ、どちらも手が届く真ん中にリンゴを置く。初対面の2頭はリンゴを奪い合い、先に手にした方が食べるが、同じことを何度も繰り返すうちにどちらか一方がリンゴに手を出さなくなる。
このことは、身体の大きさなどさまざまな要因でチンパンジーのあいだにごく自然に序列(階層)が生まれることを示している。いちど序列が決まると、“目下の者”は“目上の者”に従わなければならない。ヒトの社会と同じく、組織(共同体)の掟を乱す行動は許されないのだ 。
チンパンジーの世界にも「自由」「平等」「共同体」の正義があり、相手がこの“原理”を蹂躙すると、チンパンジーは怒りに我を忘れて相手に殴りかかったり、群れの仲間に不正を訴えて正義を回復しようとする。こうした行動は一見、奇妙に思えるかもしれないが、正義感覚がなわばり意識や子どもに対する愛情など、他の感情と同じように進化のなかでつくられてきたことに気づけば、ヒトの近縁であるチンパンジーに「正義」がない方がおかしいとわかるだろう。
「自由主義」「平等主義」「共同体主義」と「功利主義」
ヒトにもチンパンジーと同じ「自由」「平等」「共同体」の正義感覚があるならば、「正義」にかなう社会をつくろうとしたとき、3つの異なる政治的立場が生まれるだろう。
(1)自由を求める「自由主義」
(2)平等を重視する「平等主義」
(3)共同体を尊重する「共同体主義」
革命直後のフランスでは、国民会議の右翼を王政(伝統への復帰)を求める保守派(王党派)が、左翼を共和派が占め、共和派には自由を求めるリベラルと、平等を重視するデモクラットがいた。自由主義=リベラル、平等主義=デモクラット、共同体主義=コンサバティブ(保守)と、おのおのが守るべき価値によって党派が分かれていたのだ。
ところがその後、経済格差を悪として平等を求める立場が「リベラル」と呼ばれるようになり、それに対して「徴税や再分配で競争の結果を平等にするのは自由の圧殺だ」との批判が起こる。結果の平等(大きな政府)か機会の平等(小さな政府)かで、リベラルが二つに分かれてしまったのだ。
「リベラル」の名をデモクラット(平等主義者)に先に使われてしまった自由主義者は、自らを「古典的自由主義」と称するものの定着せず、現在は同じ「自由Liberty」を語源とするリバタリアンLibertarian(自由原理主義者)を名乗っている。ちなみに「古典的」とは「ジョン・ロックやアダム・スミスの時代の正当な」という意味だから、「本家」や「元祖」と同じだ。
また最近は、共同体を重視する立場をコミュニタリアン(共同体主義者)と呼ぶようになった。これは歴史や伝統に価値を置きつつも左派(リベラル)に近い立場が台頭してきたからで、白熱教室のマイケル・サンデルなどが筆頭だが、彼らを「保守(右派)」と呼ぶのは矛盾なのでより中立的な言葉が使われるようになったのだ(この場合、従来の保守派は「コミュニタリアン右派」になる)。
自由主義、平等主義、共同体主義はどれも進化論的な正義感覚を基礎にしているが、そのほかにもうひとつ、きわめて影響力の大きな政治思想がある。それが「功利主義」だ。
功利主義の際立った特徴は、他の三つの「主義」とは異なって、進化論的な基礎づけを持たないことにある。――功利的にものごとを判断するチンパンジーは(おそらく)いない。
功利主義の元祖は18世紀末イギリスの哲学者ジェレミ・ベンサムで、正義とは「最大多数の最大幸福」のことだと説いた。なぜこんなことを主張をしたかというと、すべてのひと(正確にはヨーロッパ人の成人男性)が平等だとするならば、全員が幸福になる理想世界は実現不可能だからだ。
前近代的な社会では、ひとびとは生まれたときから「身分」によって分けられていて、あらかじめ与えられた貴族や農民といった枠組みのなかで生きていくのが当然とされていた。だが近代の啓蒙主義は身分制を否定し、いまやすべてのひとは自分の望み(幸福)を実現すべく努力できるようになった。
これは素晴らしいことだが、ここにはひとつ問題がある。人間の欲望は無限だが、分配できる富は限られている。誰かの望みがかなえば、誰かは夢をあきらめなくてはならない。「あちらを立てればこちらが立たない」状況を「トレードオフ」というが、誰もが普遍的な人権を持つ平等な社会では、あらゆるところでこのトレードオフが軋轢や紛争を引き起こすのだ。
前近代的な社会は身分による階層化によってこのやっかいな問題を回避してきたが、啓蒙主義の思想家たちは人類史上はじめて、身分のない社会でのトレードオフについて真剣に考えざるを得なかった。このときベンサムの導き出した画期的なこたえが功利主義で、「トレードオフは原理的に解決不可能なのだから、理想にこだわるのはやめて、社会全体がすこしでもよくなるようにするしかない」と主張したのだ。
功利主義では、ひとびとの幸福を「効用」と呼ぶ。与えられた条件のなかで、みんなの効用の総計が最大化されたものが「正義にかなう社会」だ。いうまでもなく、こうした功利主義の考え方は経済学とものすごく相性がいい。というか、功利主義と近代経済学は一体のものなのだ。
「すべての理想を同時に実現することはできない」という事実
政治思想(主義=イズム)の対立を理解するうえでの出発点は、「すべての理想を同時に実現することはできない」という事実だ。誰もが自由で平等で共同体の絆のある社会で暮らしたいと願うだろうが、これは原理的に実現不可能だ。
自由な市場で競争すれば富は一部の個人に集中する。これは競争が不公正なのではなく、市場が複雑系だからだ。インターネットを考えればわかるように、複雑系のネットワークはハブに多くの資源(情報や人間関係など)が集まるようにできている。そしてこの仕組みは誰か(国家権力とか)の陰謀ではなく、参加者の自由な活動によって自生的に生まれたものだ。
インターネットに接続するユーザーの総数が増えたとしても、すべてのサイトに均等にアクセスが分配されるわけではない。新しいユーザーも、やはりネット世界のハブにまずアクセスし、そこから自分の好みに合ったサイトを探すだろう。こうしてユーザー数が増えれば増えるほどアクセスはYahoo!やGoogleに集中し、ネット世界の“格差”は広がっていく。
グローバル市場がインターネットと同じような複雑系のスモールワールドだとすれば、技術革新や新興国の経済成長、国家による借金(国債の増発)で市場全体に流通するマネーの総量が増えれば、それにともなってハブとなる個人や会社に富が集中し、経済格差は広がっていくはずだ。
このように、「自由」を追求すると必然的に格差が広がっていく。それを平等にしようとすれば、国家が徴税などの“暴力”によって市場に介入するしかない。自由を犠牲にしない平等(平等を犠牲にしない自由)はあり得ないのだ。
リバタリアンとリベラルは「自由Liberty」から生まれた二卵性双生児のようなものだから、経済的な不平等を容認するかどうかで激しく対立するとしても、リベラルデモクラシーの理想を共有しているのは間違いない。それは、「自由な市民が民主的に国家を統治する」という政治制度のことだ。そこでは完全な人権を持つ個人(市民)が社会の基本単位で、共同体(コミュニティ)は個人が自由な意思(友愛)でつくる二次的なものにすぎない。
それに対してコミュニタリアン(共同体主義者)は、歴史や伝統・文化を無視した「のっぺりとした近代」に強く反発する。彼らにとっては共同体こそがひとびとの生きる基盤で、あらゆる「徳」はそこから生まれるのだ。
哲学書としては異例のベストセラーとなった『これからの正義の話をしよう』でマイケル・サンデルは、家族への愛情、仲間との連帯、共同体への忠誠を「善」とし、個人を超越する義務と見なす。ひとはみな「物語る存在」で、私たちは抽象的で空疎な「近代的自我」などではなく、歴史や共同体という「大きな物語」の一部として人生という物語を演じているのだと美しく語る。
ヒトは社会的な動物で共同体(群れ)を離れては生きていけないのだから、これはたしかにそのとおりだろう。だが共同体の掟が個人(市民)の権利に優先するならば、自由や平等は二次的な権利にならざるを得ない。リバタリアンであれリベラルであれ、人権を制限する政治思想はぜったいに認めないだろうから、共同体主義と近代的自由主義も原理的に両立できないのだ 。
極端な平等主義や共同体主義では功利主義(市場原理)は全否定される
これまでの話をまとめると、「自由主義(リバタリアン)」「平等主義(リベラル)」「共同体主義(コミュニタリアン)」「功利主義」の関係は図のようになる。
橘玲『「読まなくてもいい本」の読書案内』(筑摩書房)より
下部の半円にある三つの「正義」は、いずれも進化論的に基礎づけられている。正義感覚によって直感的に正当化できるこの三つの正義は等価で、リバタリニズムを中央に置いたのは便宜的なものにすぎない。
功利主義を半円から別にしたのは、それが近代になってはじめて登場した「合理的」な思想で、進化論的な基礎がないからだ。とはいえ、功利主義の考え方は私的所有権(市場経済)を重視するリバタリアニズムときわめて相性がいいので、その部分がもっとも厚くなっている。一方、極端な平等主義や共同体主義では功利主義(市場原理)は全否定される。
素朴なリベラル(平等主義者)やコミュニタリアン(保守派/共同体主義者)が功利主義(グローバリズム)を目の仇にするのは、功利主義に正義感覚を持つことができないからだ。「非人間的」「冷たい」「傲慢」は功利主義者=ネオリベに対する定番の批判だが、これは正義感覚に本来そなわっているべき感情的なあたたかさが欠けていることをよく示している。だが功利主義者は、こうした批判に対して、「正義justice」は感情で決まるわけではないと反論するだろう。
ほとんどの場合、政治についての議論はリベラルデモクラシーという制度の枠組みのなかで、それぞれの主義(イズム)の対立として現われる。その一方で、デモクラシーそのものを否定する思想もある。
共同体主義のなかでもっとも功利主義から遠い「保守の最右翼」は、日本古来(とされる)の伝統を重んじ、武士道など日本人の美徳を説く。その一方で左翼の市民運動は、大企業や富裕層を罰し、すべての社会的弱者を国家が救済すべきだと主張するだろう。
極右と極左は不倶戴天の敵だと思われているが、最近は市民運動の集会に新右翼の団体が参加することも珍しくなくなった。しかしこれは不思議でもなんでもなく、図を見ればわかるように、リベラルデモクラシーの枠の外で、市場原理とグローバリズムを否定することで両者の思想は通底しているのだ。
最近では、急進的な功利主義者のなかに、ITを駆使してよりよい社会を「設計」すればいいと考えるひとたちが現われた。サイバーリバタリアンと呼ばれる彼らは、民主政よりもAIによる支配を好ましいと思うかもしれない。
「民主主義」という誤訳を使うことで、「デモクラシー」の制度のなかでの政治思想(主義)の対立と、民主政に代わる政治制度(IS=イスラム国の求める神政もそのひとつだ)のちがいがわからなくなってしまう。当たり前の話だが、理解できないものを「守る」ことはできない。
デモクラシーを守るためにこそ、「民主主義」をやめなくはならないのだ。