NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

親鸞

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

── 『歎異抄

「体揺り動かし念仏唱える 京都・東本願寺で坂東曲」(京都新聞
 → http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20151128000042

 京都市下京区真宗大谷派本山・東本願寺報恩講は28日に最終日を迎え、僧侶が体を激しく揺り動かして念仏を唱える「坂東曲(ばんどうぶし)」が営まれた。

 坂東曲は同派に伝わる独特の声明で、報恩講の最終日、宗祖親鸞の命日にだけ営まれる。約800年前に親鸞が越後に流罪となった際、船上で念仏を唱えた姿を再現したとも言われるが、由来は分からない。おめくような声は、戦国時代の文献にオオカミがほえるようだとも記されている。

 午前10時に御影(ごえい)堂で始まった。親鸞の木像の前で大谷暢顕(ちょうけん)門首(85)が鎌倉時代から伝わる「報恩講私記(しき)」を読み上げて親鸞の遺徳をたたえた。堂衆と呼ばれる70人の僧侶らが正座したまま上半身を前後、左右に揺らして「ナ、ムア、アーア」「ミダ、アーア」と独特の節回しで「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えた。

 21日からの報恩講には計3万8千人が参拝した。

報恩講親鸞の教え、歌にのせ 東本願寺 /京都」(毎日新聞
 → http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20151122ddlk26040263000c.html
「体揺らし念仏唱和、京都・東本願寺で「坂東曲」」(読売新聞)
 → http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20151128-OYO1T50027.html
「8日間にわたる報恩講『坂東曲』で締めくくる 東本願寺」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/west/news/151128/wst1511280046-n1.html


善人ですら救われるのに、悪人が救われないはずがない。

 私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。悪人は ── 悪徳自体は常にくだらぬものではあるが、悪徳の性格の一つには孤独といふ必然の性格があり、他をたより得ず、あらゆる物に見すてられ見放され自分だけを見つめなければならないといふ崖があるのだ。善人尚もて往生を遂ぐ況(いわん)や悪人をや、とはこの崖であり、この崖は神に通じる道ではあるが、然し、星の数ほどある悪人の中の何人だけが神に通じ得たか、それは私は知らないが、そして、又、私自身神サマにならうなどと夢にも考へてゐないけれども、孤独の性格の故に私は悪人を愛してをり、又、私自身が悪人でもあるのである。けれどもそれは孤独の性格の故であり、悪人の悪自体を正気で愛し得るものではない。
 文学とは人間の如何に生くべきかといふ孤独の曠野の遍歴の果実であり、この崖に立つ悪の華だが、悪自体ではない。
 私は悪人だから、悪事が厭だ。悪い自分が厭で厭でたまらないのだ。ナマの私が厭で不潔で汚くてけがらはしくて泣きたいのだ。私はできるなら自分をズタ/\に引き裂いてやりたい。そしてもし縫ひ直せるものならすこしでもましなやうに縫ひ直したい。
 私は自分を引きさいて少しでもましなものに縫ひ直さうと小説を書くのだけれども、私の本性までケチであり、職人の腕がだめだから、厭らしい浅ましい姿だけしか書けなくて私はいつも絶望の一足手前でふみとゞまつてゐるだけだ。

── 坂口安吾(『蟹の泡』)

親鸞(上) (講談社文庫)

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歎異抄 (講談社学術文庫)

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[新訳]歎異抄   「絶対他力」の思想を読み解く

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