NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

狂信主義とどう向き合えばいいのか?

原発集団的自衛権ヘイトスピーチ…誰もが成りうる狂信主義とどう向き合えばいいのか?」(ダ・ヴィンチニュース)
 → http://ddnavi.com/news/201315/

原発集団的自衛権ヘイトスピーチ…。この頃、SNSで語られることの多い社会問題。少なからず3.11が起きて、生存の危機を実感するまでは、一般の日本人がこれほど政治や社会に関心を持つことはなかったように思う。それが顕著だったのが福島第一原子力発電所事故後のツイッターだ。

 当時、ツイッターを開くたび、日本が真っ二つに割れているように感じられた。「原発は危険だ。今すぐ日本(もしくは福島)から出ないととんでもないことになる」という人と、「原発は危険だが、風評被害で苦しんでいる福島の人々の気持ちを考えろ」という人。中でもたちが悪かったのが新聞記者や編集者、報道カメラマンといった同業者たちのツイートだ。自分が属する組織の名前をわざわざ挙げながら「ここでつぶやくのは個人の意見です」とプロフィールに綴るダブルスタンダードの滑稽さもさることながら、中にはスクープ欲しさにデマを流したり、自分たちの仲間が攻撃を受けたりすると、徒党を組んで徹底的に発信者を潰しにかかるプロフェッショナル(!?)な情報の門人もいた。たとえ一般人のツイートであっても相手の矛盾を突いて、小ばかにすることを目的として仲間同士でシェアをするプロ意識のなさといったら…。それが正義であると頑なに信じている様子だったが、傍から見るとただのいじめである。それまで牧歌的だったツイッターは、こうして原発事故を境に殺伐とした戦場へと変わっていた。ここ数日の集団的自衛権を巡る論争は、どこかあの頃を思い起こさせる。


 “わたしたちが正しい場所に花はぜったいに咲かない 春になっても。
  わたしたちが正しい場所は踏みかためられて かたい 内庭みたいに。”
――イェフダ・アミハイ「わたしたちが正しい場所」より


 エルサレム生まれのイスラエルの偉大な作家であり、平和運動団体「シャローム・アクシャヴ(今こそ平和を)」の創設メンバー、アモス・オズ氏の著書『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』(村田靖子:訳/大月書店)を手にしたのは、ちょうどその時期。子ども時代をエルサレムで過ごし、中東をめぐる社会評論で国際的に評価されている同氏は、自らを「比較狂信主義学の専門家」と呼ぶ。同書では狂信主義とは何か、また、それがなぜ起こるかについて書かれてある。

 同氏はアメリカ同時多発テロ事件を例に出し、「これは、狂信者、つまりどんな目的であれ、その目的のためならどんな手段をとってもいいと考える者たちと、一般のわたしたち、つまり生きること、あるいは命がいちばん大切で、命を手段として使おうなどとはさらさら考えない者とのあいだの争いなのです」と言及。「狂信主義者と現実主義者のあいだの古くからある争いです。狂信主義と複数主義の争い。狂信と寛容の争い」。この文節は、そのまま、東日本大震災以降の日本社会にも当てはまるように思われる。

 狂信主義の神髄には、自分の主義・主張だけが正しく、他人をなにがなんでも変えてやりたいという願望がある。狂信者は、同調主義や意見の統一が絶対であるがゆえに、独善的な行動を取ることを厭わないのだ。

 また、狂信主義は伝染しやすく、変する者は裏切り者ととらえる。よって仲間内での分裂を起こしやすい。その紛争が善と悪の戦いではなく、互いが絶対と信じる正義と正義のぶつかりあいであれば、より理解し合うのは難しい。相手を殺してでも自分の主義・主張を飲み込ませたいという者が出てきてしまう。

 狂信主義の治療薬があるとするなら唯一、ユーモアのセンスだとオズ氏は主張する。「ユーモアの一つの要素は自分自身を笑うことです。ユーモアとは相対主義。ユーモアとは人が自分をどう見ているかがわかる力。ユーモアとは、たとえどんなに自分が正しかろうと、どんなに間違っていようと、人生にはいつでも、必ず少しだけ可笑しい面があることに気づく力。自分が正しければ正しいほど、自分が可笑しく見えてくる」。

 狂信者のメンタリティーの根はひどく感傷的で、同時に想像力を欠如しているからこそ、たとえわずかでも希望がもてる。「もしこういう人たちの心に想像力を注ぎ込んでやれば、それが功を奏して狂信者もそうそう自分のいうことがぜったいに正しいとは思えなくなる」。また、大きな夢から生まれたものは、やがて失望や幻滅に変化していくという、夢の特性について知ることも大事だ。

 「よい垣根はよい隣人をつくる」ということわざがあるように、オズ氏はイスラエルパレスチナ問題についてかたくなに二国家解決法を主張している。異質な者どうしが、どう隣り合わせで暮らすか。決着をつけず、不確実なものをかかえながらどう共存していくか。黒白をはっきりとつけたがるのは、狂信者たちの悪い癖だ。国家の在り方のみならず、夫婦関係、親子関係など、すべての人間関係について考える時、オズ氏の皮肉まじりのユーモアが不思議と心を鎮めてくれる。

わたしたちが正しい場所に花は咲かない

わたしたちが正しい場所に花は咲かない


福田恆存の正義論はかうだ!

 自分だけの正義というものはなく、正義はつねに主張のうちにある。相手のため、他人のためと言ったこところで、どうしても人を強制することになる。強制それ自体が悪であるばかりではない。どんな正義もその半面には不正と必然悪をともなってをり、そこには人を益するものがあると同時に人を害するものがあるのだ。
 他人にたいする寛容というのは現代的な美徳であるが、昔は独りを慎む礼儀というものがあって、それは主張や表現を事とする文章の世界をも支配していた。たとへばエロティックな事柄を口にする場合、「デカメロン」でも「アラビアン・ナイト」でも、ユーモアやレトリックなしではすまされなかったのである。
 現代でも、そしてもっと低級な春本や猥談においてさえ、やはりそれなりに低級な笑いを、この場合は礼儀とまでは言わぬごまかしの煙幕に用いている。望むらくは、今日の正義の主張者が、正義論もまた猥談のごとく人前で大声に語りにくき恥ずべきものと心得られんことを。

── 福田恆存(『日本への遺言』)