NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「不幸なら不幸で、またそこに生きる道がある。」

『死』に比べれば、この世に大した不幸はない 哲学人生は意外と幸福だったかも?」(東洋経済オンライン)
 → http://toyokeizai.net/articles/-/34066

 獣や魚がどうなのかは知らない。だが古今東西、老若男女、人が悩み、迷うのは確か。“戦う哲学者”中島義道氏が開く人生相談道場に“同情”はない。ここにあるのは、感受性においてつねにマイノリティに属してきた中島氏が、壮絶な人生経験を通じて得た、ごまかしも容赦もない「ほんとうのこと」のみ。“みんな”の生きている無難な世界とは違う哲学の世界からの助言に、開眼するも、絶望するも、あなた次第である。

 普段は2人でつつましいながらも仲良く暮らしています。
 ですが、休日、買い物に出掛けた際に、小さな子供を連れた家族連れを見かけると、彼らに対して、ふとあこがれを感じ、自分は決してそのような体験をすることができないのだ、という絶望感を感じます。
 また、自分が年老いたときには、誰も身内がおらず、ひとり、誰にも見守られず孤独に苦しみながら死んでいくのか、と考えると今からとても怖いです。
 私は、これからもこうした絶望や恐怖を抱えながら、生きていかざるをえないのでしょうか?

(男性 会社員)

 今回も、正直、困りました。相談者の相談意図がまるでわらないからです。欄外に「1972年生まれ、中小企業のサラリーマン」とありますから、40代前半の男性であることはわかります。そして、「普段は2人でつつましいながらも仲良く暮らしています」とありますから、常識(?)に従って結婚しているとみなします。

 そのうえでご相談の文面を読んでみても、やはりわざわざ私に相談することの意味がよくわからない。いろいろ陰鬱な気分は書いてますが、具体的悩みは「結婚しても子供がいない」ということに収斂されてしまい、こんな人は、わが国に何百万人もいるだろうし、としても直ちには「誰にも見守られず孤独に苦しみながら死んでいく」とはつながらない。そういう人でも、兄弟姉妹の子供がいるかもしれないし、友達がいるかもしれないし、気の合った後輩がいるかもしれない。

 そのすべてがいないとしても、配偶者がいるはずで、その人が先に死んだら、まさに「誰にも見守られずに」となるわけですが、自分が先に死ぬかもしれない……。というわけで、ここまで頑張って耐えてきましたが、やはり無性にイライラしてきました。空っぽの相談に向かって「答えて」いてもむなしいだけです。


空っぽの相談に「答える」のはやめます

 そこで、今回は今までとはまったく異なった答え方をしようと思います。すなわち、自分のことばかり語ろうと思います。

 今回のご相談を受けて最初の違和感は、子連れの家族を見ると「あこがれを感じ」と言いながら、その1行後には「誰にも見守られず孤独に苦しみながら死んでいく」とつながっていく点です。あたかも、子供を持つことは死に際に見守られたいだけであるかのよう、少なくともそれが大事なことであるかのようです。つまり、すべてが「自分のため」であるかのようです。


人は損得勘定で子供を作るのではない

 よく、「子供がいないと、老後、寂しいから、子供を持ったほうがいいよ」と忠言する親や先輩がいますが、これほどの間違いはない。「そうだな」と同調しているうちは、子供を持たないほうがいいでしょう。というのは、子供を持っている多くの方は知っていると思いますが、普通の損得勘定でいけば、子供を持つより割の悪いことはないからです。カネはかかるし、どんなに一生懸命に育てても、ほとんど何も感謝されないどころか、下手をすると、一生恨まれ、憎まれ、呪われ続ける。そして、子供が犯罪に走ったりすると、すぐに親の責任を問われる。いいえ、以上すべてを合わせたより「割の合わない」のは、もし子供がいじめられたり、その結果、自殺したり、そうでなくても病気や事故で死ぬことになったら、もう天地が崩れるほどの衝撃を受け、それ以上、生きることができないほど絶望するからです。

 その点、子供を持っていない人は楽でいいですね。しかし、私が本当に言いたいのは、ほとんどの人は損得勘定で子供をつくるのではないということ。子供をつくることをもって、人は損得勘定を超えたところに至るということです。そして、たまたま(本当にたまたまです)、子供がどうにか幸せに暮らしていれば、「それでいい」というのが、「それ以上何も望まない」というのが、そして「自分に何もしてくれなくてもいい」というのが、大部分の人の親心ではないでしょうか。いや、基準はもっと下がって、どんなに不幸でも、どんなに社会からつまはじきにされていても、「とにかく生きていてくれればいい」というのが親心かもしれません。こうして、ダメな子を持てば持つほど、人は鍛えられ、高みに至るのかもしれません。

 さて、次の違和感は、「誰にも見守られずに孤独に苦しみながら死んでいく」という人生観ですが、それが嫌なら、ひたすら孤独に陥らないように努力するほかないでしょう。私が『孤独について』で書いたことは、(中島が何で「孤独」なんだ、とずいぶん誤解されているようですが)、「私は孤独であることを恐ろしいと感じないほど孤独な人間なのだ」ということを伝えたかったのです。私が少年の頃から抱いているのは、私が死ぬかぎり私は不幸であり、この公式を覆い隠すものはすべてうそであるという信念であり、よって一瞬もこのうそにだまされまいと決意して生きてきました。


小学生で「死」こそ最大の不幸と悟っていた

 子供を持つこと、お墓を持つこと、家族に看取られて死ぬことは、死後も多くの人が自分の本を読んでくれること、超有名人になり自分の銅像が立てられること、自分の記念館が建てられること……等々に劣らず、むなしいことです。私が「孤独」も「不幸」も「失敗」も恐れなかったのは、「死」を恐れたこととの引き換えだとの実感があります。「死」に比べれば、あとのすべての不幸は何ということはない、私は小学生の頃からそう思って、不幸を(独特な意味で)「克服」してきました。そして、だんだん、経験を積み身をもって本当にそうだなあと実感する頃(40歳を超える頃でしょうか)、孤独も不幸も失敗もどんどん薄らいでいきました。不思議なことに、シンから何も期待しなくなると、望んでいなかった「この世の幸福」が次々と手に入ってきたのです。

 最後にかたちだけですみませんが、相談者に一言。私は、自分が死ぬかぎり幸福になるはずがない(幸福になる資格はない)と思い込み、あえて幸福を求めることをせず、その代わりに「本当のこと」がわかればいい(その結果、不幸になってもいい)と願って「哲学」に沈潜しました。私にとって「死」は無性に恐ろしかったからこそ、それから目を逸らさないで、それのみを見つめる生き方をしようと思った。それが「哲学」というわけです。すなわち、私は最も不幸な生き方をしようと思った。そして、もうそろそろ人生を終える〈今〉になってみると、これ以外の生き方はできなかった、これは、ある意味で(自分の意図に逆らって)幸福なのかもしれないなあ、と苦笑している自分を見出します。あっ、また自分のことをしゃべってしまった。では終わります。

 参考図書は、『孤独について』(文春新書、文庫)と『不幸論』(PHP新書)は前にも挙げました。これらにあえて付け加えれば、『生きにくい』(角川文庫)でしょうか。


福田恒存の幸福論はかうだ。

  • 「失敗すれば失敗したで、不幸なら不幸で、またそこに生きる道がある。」
  • 「孤独を見きわめた人だけが、愛したり愛されたりする資格を有する。」

 失敗すれば失敗したで、不幸なら不幸で、またそこに生きる道がある。その一事をいいたいために、私はこの本を書いたのです。べつの言葉でいえば、自分の幸と不幸とは、自分以外の誰の手柄でも責任でもない。誰もが、いままで誰一人として通ったことのない未知の世界に旅だっているのです。なるほど忠言はできましょう。が、その忠言がどの程度に役だつかどうか、それはめいめいが判断しなければなりません。第一、つねに忠言を期待することは不可能です。
 究極において、人は孤独です。愛を口にし、ヒューマニズムを唱えても、誰かが自分に最後までつきあってくれるなどと思ってはなりません。じつは、そういう孤独を見きわめた人だけが、愛したり愛されたりする資格を身につけえたのだといえましょう。つめたいようですが、みなさんがその孤独の道に第一歩をふみだすことに、この本がすこしでも役だてばさいわいであります。

── 福田恆存(『私の幸福論』)

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)