NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

耳すま症候群

休みの前の夜更かし。



「『耳をすませば』症候群、ネット掲示板がヤバイと話題」(産経新聞)
 → http://topics.jp.msn.com/entertainment/general/article.aspx?articleid=1943090

 宮崎駿監督のスタジオジブリ最新作「風立ちぬ」の劇場公開(7月20日)に先駆け、ジブリアニメの3週連続テレビ放送が始まっている。7月5日には、その第1弾「耳をすませば」が放送されたが、直後からネット掲示板には「死にたい」「俺の青春返して」などとネガティブな書き込みが続出。「どうしてこうなった」「大丈夫か」と心配する声が上がっている。

 映画「耳をすませば」は人気漫画家・柊あおいの同名作品が原作で、1995年にスタジオジブリによって映画化された。主題歌はカントリーロード。中3の主人公・月島雫が、同級生・天沢聖司の少し意地悪な好意に反発しながらも、ヴァイオリン職人への道をひたむきに進む姿に惹かれていく、甘酸っぱい青春恋愛ストーリーだ。

 この作品が5日に放送されると、ネット掲示板では「いやああああ」「助けろおおおお」「キィエエエエ!!!」といった叫び声が相次ぐ事態になった。

 映画では、主人公の雫と聖司が結婚まで約束してしまうのだが、現実社会でこんな青春を経験できる中学生はほとんどいない。それにもかかわらず、「俺たちは老いた」「こんな青春あかんわ…」「俺の人生つまんね…」「何やってんだろ、俺…」と、二度と戻らない青春時代を嘆く声が次々と書き込まれた。「見なきゃよかった」「だから見るなって言っただろ」と互いを慰め合う書き込みもあった。

 ネット掲示板に立てられたスレッドの題名は「『耳をすませば』自殺会場」。書き込みを見ると、首をつったような絵文字がビッシリで、「ここが樹海か」「死のうか」「ここでしぬうううう」「あの世で待ってるぜ」と、人生を絶望視する声があふれているのだ。

耳をすませば」をめぐっては、公開翌年の1996年からネット掲示板で話題になっていた。ただ、当時は「雫ちゃん!」「せいじ君、かっこよすぎ」と作品を賞賛する声がズラリ。「見てうつになった」という声も中にはあったが、「なんでうつになるのかさっぱり理解できん」「ただアニメだなーとしか思えない」といった意見が大多数だった。

 しかしその後、世の中はデフレ不況と、それに伴う未婚率の上昇が深刻化。「耳をすませば」がテレビで再放送されるたびに、「またこの季節がやってきたか…」といった書き込みが増え続け、いまや阿鼻叫喚の地獄絵図になっている。「耳をすませば」をもじって、「耳をふさげば」「首をつるせば」なんてフレーズまで出てくる始末。そのありさまに、一部では「耳をすませば症候群」なんていわれる社会現象になっているのだ。

 ネット掲示板でこうした悲鳴を上げているのは、多くが映画公開後の90年代後半に中高生だった30歳前後から30代半ば付近の男性とみられる。夢と恋愛にまっすぐな作中の登場人物を見て、現実から逃げ出したくなっているようだ。30~35歳の男性の未婚率が47%を突破した今、「耳をすませば症候群」の“患者”は今後も重症化していく可能性が高い。

日刊ゲンダイ2013年7月7日掲載)


安吾。

 恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、ということを知っている大人の心は不幸なものだ。
 若い人たちは同じことを知っていても、情熱の現実の生命力がそれを知らないが、大人はそうではない、情熱自体が知っている、恋は幻だということを。
 年齢には年齢の花や果実があるのだから、恋は幻にすぎないという事実については、若い人々は、ただ、承った、ききおく、という程度でよろしいのだと私は思う。

 ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。死ねば白骨になるという。死んでしまえばそれまでだという。こういうあたりまえすぎることは、無意味であるにすぎないものだ。

 教訓には二つあって、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のものと、二つである。
 恋愛は後者に属するもので、所詮幻であり、永遠の恋などは嘘の骨頂だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえということが成り立たないのと同じだ。

 人間の生活というものは、めいめいが建設すべきものなのである。めいめいが自分の人生を一生を建設すべきものなので、そういう努力の歴史的な足跡が、文化というものを育てあげてきた。恋愛とても同じことで、本能の世界から、文化の世界へひきだし、めいめいの手によってこれを作ろうとするところから、問題がはじまるのである。

 私はいったいに同情はすきではない。同情して恋をあきらめるなどというのは、第一、暗くて、私はいやだ。
 私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実際は苦難の道なのである。なぜなら、弱者の道はわかりきっている。暗いけれども、無難で、精神の大きな格闘が不要なのだ。

 恋愛は人間永遠の問題だ。人間ある限り、その人生の恐らく最も主要なるものが恋愛なのだろうと私は思う。人間永遠の未来に対して、私が今ここに、恋愛の真相などを語りうるものでもなく、またわれわれが、正しき恋などというものを未来に賭けて断じうるはずもないのである。
 ただ、われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せい一ぱいに生きること、それをもって自らだけの真実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ。

 人の魂は、何物によっても満たし得ないものである。特に知識は人を悪魔につなぐ糸であり、人生に永遠なるもの、裏切らざる幸福などはあり得ない。限られた一生に、永遠などとはもとより嘘にきまっていて、永遠の恋などと詩人めかしていうのも、単にある主観的イメージュを弄ぶ言葉の綾だが、こういう詩的陶酔は決して優美高尚なものでもないのである。

 人生においては、詩を愛すよりも、現実を愛すことから始めなければならぬ。もとより現実は常に人を裏ぎるものである。しかし、現実の幸福を幸福とし、不幸を不幸とする、即物的な態度はともかく厳粛なものだ。詩的態度は不遜であり、空虚である。物自体が詩であるときに、初めて詩にイノチがありうる。

 人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。

 人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。

── 坂口安吾『恋愛論』


日本文化私観 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

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恋愛論

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