noblesse oblige
ノブレス・オブリージュ。
「位高ければ徳高きを要す」と訳される仏語である。
高貴なる者には相応の義務が伴う。
欧州では貴族の戦死者が多いという。位の高い貴族の子弟たちが最前線で戦うからだ。
日本でも皇族が一軍人として従事していたという歴史がある。
何かとゴシップの絶えない英国王室にあっても、王子たちが最前線に派遣されている。
最近ではウィリアム王子や、アフガンでのヘンリー王子の活躍が話題となっているのは周知の通り。
そして彼らが学んだのが、パブリックスクール、イートン校である。
モントリオールにいた頃の昔のメモより。
ご多聞に洩れず、私もパブリック・スクール、イートン校の出身である。
我が母校の教育方針は、
「勇敢たれ、
楽天的たれ、
ムキになるな」
というものであった。
男の人生においてもっとも大事なのは、勇敢であるということだ。勇敢でなくて、どうして運命を拓いて行けるだろうか? 心がひるんだら、人生の戦いは終わりである。いったん負け癖がついたら、男はもう王道を歩んで行くことはできない。ただし誤解のないように断っておくと、勇気と蛮勇とをはき違えてはならない。進むも勇気なら退くも勇気なのである。ただやみくもに突き進めばいい訳ではないのだ。人生には心ならずも退かねばならないことがある。傍目にはカッコ悪く映るかもしれず、自分の沽券にかかわるように思えても、一歩下がって次の飛躍に備えねばらない局面があるのだ。こういう時に、後先も考えずに進むのは、蛮勇でしかない。蛮勇 ― 要するに、バカである。
人は、万人注視の下ではヒロイックになれる。死ぬことさえする。が、本当の勇気とは誰の目もないところで苦しみや悲しみに耐え、生きて行くことだ。それが男なのである。その際、楽天的でなくてはならない。人生、悲観的なやつに拓かれることなく、幸運の女神もペシミストのドアにノックはくれないのである。が、どうしたら楽天的たり得るのか? 人生の悲劇のひとつは、記憶の重荷である。 ― と言ったのはサマセット・モームだが、あらゆる嫌な記憶を忘れる修練を常に欠かさないこと、この一点に尽きると言っていい。
ムキになるな。人間、ムキになると思考が停止する。バカ同然になる。バカは、粋ではない。なにより私は、無粋を恥じる。私はイートン校の落とし子である。
人は、この世は弱肉強食だという。
でもそれじゃあ、獣と同じぢゃないか。
安吾は言う。
「人間の尊さは、自分を苦しめるところにあるのさ。満足はだれでも好むよ。けだものでもね。」(『風と二十の私と』)。
昨日書いた曽野綾子さんが言うように、「人間というものは、自分が損のできる人にならねばならないと思っている。できるかどうかは別として、そうありたいと願うのである。」と、ぼくも願う。
翁にも曰く、
正義はソンでもソンのほうをとってはじめて正義であることがある。
── 山本夏彦(『何用あって月世界へ』)
お金も地位も何も無いぼくは、せめて精神だけでも高貴たらんと願うのである。
青臭いと言うなかれ。