NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

太宰より安吾

キンコン西野だけじゃない! 太宰嫌いな人々」(ダ・ヴィンチ電子ナビ)
 → http://ddnavi.com/news/105421/

 「僕は太宰治が(いかがわしいから)大嫌いなのですが」……このつぶやきが発端となりTwitterが炎上した、お笑いコンビ・キングコングの西野亮廣。その後、「太宰治先生のファンの皆様、たいへん申し訳ございませんでした」と謝罪したが、その際、「負けた私が言うのもおかしな話ですが、『大人とは裏切られた青年の姿』なのです。覚えておいてください」と、太宰の作品『津軽』の一節を引用。太宰への印象だけで語っているわけではなく、作品を読んだ上での発言であることを漂わせた。

 太宰治といえば、残された写真をケータイの待ち受けにもしているというピースの又吉直樹をはじめとして、今も熱狂的なファンを生み出している文豪。しかし、キンコン西野のように「嫌い!」と拒否反応を示す人も少なくない作家でもあるのだ。

 例えば、今、政治の世界で大きな注目を集めている石原慎太郎もそのひとり。2009年、産経新聞に寄稿した「石原慎太郎 文学と世相」でも、「太宰の小説を生理的にどうにも好まない」「太宰治の自意識の構造とは、自己否定による、実は自己愛。自己嫌悪による、実は己への愛着だが、私にはそれがなんともいじましく好きにはなれない」と宣言。「太宰の虚弱な性格は、その跳ね返りとして他人からの説得を受け入れられない。具合の悪いことはへらへら笑って聞き流す」と性格にまで言及。また、「(太宰の小説を)極めて好むという現代の風潮には大層危ういものがある」と昨今の“太宰好き”の増加をも憂い、「この国も実は今のままでいけば衰弱のはてに自殺しようとしているように思えてならない」と国家論にまで発展させる。

 また、村上春樹も『おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2』(村上春樹:著、大橋 歩:画/マガジンハウス)に収められた「太宰治は好きですか?」というエッセイにおいて“肌に合わない”と明かし、さらに太宰本人に向かって「嫌い」と言い放ったといわれる三島由紀夫は、『小説家の休暇』(新潮社)において「第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ」と記述。

 Web上でも、太宰を巡っては好き嫌いの論争が激しいもの。なかには「なんとなく嫌い」という人も多いようだが、そんな人には、太宰作品の“ぐっとくる”ポイントを押さえた『泣ける太宰 笑える太宰』(宝泉 薫/彩流社)や、人気作家・森見登美彦によるアンソロジー『奇想と微笑―太宰治傑作選』(光文社)を読んでみてからジャッジしてはいかがだろう。

 しかし、これほどまで好き嫌いが分かれるというのは、それだけ太宰がインパクトの強い作品を生み出したという証拠だろう。さて、あなたはどっちに加勢する?


嫌いとは言わないが、、、


太宰より安吾。
斜に構えた青臭い太宰よりも、“がむしゃら”で“トンチンカン”な安吾の方がぼくの性に合う。

 自分を忘れたい、ウソつけ。忘れたきゃ、年中、酒をのんで、酔い通せ。これをデカダンと称す。屁理窟を云ってはならぬ。
 私は生きているのだぜ。さっきも言う通り、人生五十年、タカが知れてらア、そう言うのが、あんまり易しいから、そう言いたくないと言ってるじゃないか。幼稚でも、青くさくても、泥くさくても、なんとか生きているアカシを立てようと心がけているのだ。年中酔い通すぐらいなら、死んでらい。
 一時的に自分を忘れられるということは、これは魅力あることですよ。たしかに、これは、現実的に偉大なる魔術です。むかしは、金五十銭、ギザギザ一枚にぎると、新橋の駅前で、コップ酒五杯のんで、魔術がつかえた。ちかごろは、魔法をつかうのは、容易なことじゃ、ないですよ。太宰は、魔法つかいに失格せずに、人間に失格したです。と、思いこみ遊ばしたです。
 もとより、太宰は、人間に失格しては、いない。フツカヨイに赤面逆上するだけでも、赤面逆上しないヤツバラよりも、どれぐらい、マットウに、人間的であったか知れぬ。

── 坂口安吾『不良少年とキリスト』


教祖の文学・不良少年とキリスト (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

教祖の文学・不良少年とキリスト (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

太宰と安吾

太宰と安吾