NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「靖国神社問題」

「人は言論の是非より、それを言う人数の多寡に左右される。」

─ 山本夏彦『何用あって月世界へ』



三大新聞を敵に回し、孤軍奮闘の産経新聞ですが、一昨日書いた通り、ぼくも同じ見解です。



「【主張】靖国神社問題 国立追悼施設に反対する」(産経新聞『社説』6/7)
 → http://www.sankei.co.jp/news/050607/morning/editoria.htm

 靖国神社に代わる無宗教の国立追悼施設を建設すべきだとする主張が、一部マスコミや政治家の間で再燃している。水鳥の羽音に驚きあわてるかのような騒ぎだが、中国などに迎合した議論といわざるを得ない。

 もともと、国立追悼施設構想は四年前の国会で、小泉純一郎首相の靖国神社参拝を問題視する当時の民主党代表や社民党党首から提起された。「外国要人も献花できる国立墓地を」というものだが、首相の靖国参拝を認めたくないための論理のすり替えだった。

 最近、朝日新聞だけでなく、保守主義を基調とする読売新聞までが「国立追悼施設の建立を急げ」とする社説(四日付)を掲げた。≪靖国神社が、神道の教義上「分祀」は不可能と言うのであれば、「問題解決」には、やはり、無宗教の国立追悼施設を建立するしかない≫とあったが、いささか飛躍した論理ではないか。

 靖国神社に合祀(ごうし)されているいわゆる「A級戦犯」を分祀すべきだとする意見は、中国などの政治的狙いに沿うものでしかない。靖国神社にまつられている霊を取り除き、別の社に移し替えるという意味の「分祀」は、神道ではあり得ない。そのことを理解しているのであれば、まず外国に理解を得る外交努力を求めるべきだ。

 中国副首相の突然の帰国を批判した先月二十五日付社説「最低限の国際マナーに反する」で、首相の靖国参拝について「他国の干渉によって決めることではない」とした読売の論調は、どこへ行ってしまったのだろうか。

 戦没者慰霊はその国の伝統的な宗教や文化と深く関係している。日本には戦没者慰霊の中心施設として靖国神社がある。外国の圧力でできた無宗教の追悼施設などに誰が行くだろうか。そんな施設に税金を投じるのは無意味かつ無駄である。


では、文化とは何か!?
福田恆存は言います。 『日本への遺言』

 現在、戦争をたんに利害の衝突からのみ眺める妙な先入観がありますが、そんなかんたんなものではない。負けた方が、侵略のままにまかせた方が、下手に戦うより楽な場合だってあります。それをなぜ、人類は性懲りもなく戦争を繰り返してきたか。それは意識するとしないとに関わらす、自国の文化を守るためでありましょう。自分のくせや気質を守るためでありましょう。それほどに、自分の気質とかくせとかいうものは大事なものであります。それは私たちの、いわば生き方であって、それを変えろと言われるのは自分の生活が否定されるほどに辛いのです。
 私たちの最近の歴史は、そういう辛い目にばかりあってきた。文化の混乱であり、文化の喪失であります。もっと遺憾なことは、私たちが、その事実に気づいていないのみか、その辛さにも気づかぬほど、すっかり文化感覚を失ってしまっているのであります。だから、食えてはじめて文化というような観念が時代を風靡していて、だれもそれを怪しまないのです。そして、こういう文化観念はもっぱら知識階級の間に流行しています。民衆はまだしも文化をもっている。自分たちの歩くくせや気質を守っています。それを捨てて、新時代につて来られぬ彼らを、知識階級は軽蔑する。が、私はそういう知識階級を軽蔑したい。文化の混乱の結果、いちばん辛い目にあっているのは民衆です。それも、彼らの間にには、まだ文化感覚が生きているからです。

日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)

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