NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

「尾崎行雄は何を語ったのか」

「【正論】『立憲』の旗を掲げるからには改憲は避けて通れない 埼玉大学名誉教授・長谷川三千子」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170913/clm1709130008-n1.html

 今回の選挙に臨んでは、その名も「立憲民主党」なる新党が登場しました。これで改憲を目指さなければならない党が、もう一つ増えた、ということになります。

 党を結成した枝野幸男氏自身は気づいておられないかもしれませんが、現行憲法のもとで「立憲」の旗を掲げるからには、改憲は避けて通れない道筋なのです。


尾崎行雄は何を語ったのか≫

 いったいどうしてそう言えるのか-そのことの道理をよく教えてくれるのが、9月30日付朝日新聞朝刊の記事「改憲の道理 主権者が吟味を」です。その冒頭には尾崎行雄著『政治読本』からの一文が掲げられています。「『ただ一貫したる道理によってのみ支配せられる。』これが立憲政治の精神である」

 近頃にわかに「立憲主義」「立憲政治」という言葉が復活してきて、多くの場合、これはただ、憲法は政権を縛り抑えるものである、という意味でのみ使われています。この記事の執筆者も、われわれ主催者は「憲法は、公権力に対する私たちからの命令であるという基本」を自覚しなければならない、と述べているのですが、これは立憲政治のほんの一面にすぎません。

 いくら主権者であっても、道理に基づかない命令を下すことはできない-これが尾崎氏の語っているところであり、実際、これはまさに「立憲政治」というものの本質を射当てた言葉なのです。

 もともと「立憲政治(コンスティテューショナルな政治)」という考え方の源流は英国の不文憲法のうちにあります。その重要な柱の一つがコモン・ローと呼ばれる慣習法なのですが、これは単にその地で古くから行われていた法であるというだけではない。「道理に適(かな)っている(リーズナブルである)」ということが、もう一つの大事な条件なのです。

 これは決して頭でっかちの理性万能主義ではありません。政治というものを、いっときの熱狂や怒りや気まぐれに左右させてはならないという知恵と決意が、この政治原則を支えている。尾崎氏は、まさしくその精神を正しくとらえていたのです。


≪主権維持には「力」が不可欠≫

 確かに『政治読本』を書いたときの氏は、大正14年当時の日本憲政の現状に悲憤慷慨(こうがい)しています。しかし、それを改めるべき道理を示すものとして、そこには大日本帝国憲法というものがあった。

 この憲法の簡潔明瞭な条文のうちに、わが国の立憲君主政治の道理を見て取っていたからこそ、尾崎氏は確信をもって「立憲政治の精神」を語り得たのです。

 もし仮に、その憲法自体のうちに「一貫した道理」が欠けており、条文と条文が矛盾しあっていたとしたら、「立憲政治の精神」を語るどころか、そもそも立憲政治というものが不可能となってしまいます。ところが実は、現行日本国憲法のもとでのわが国は、まさにそういう状態にあるのです。

 それをもたらしているのは、第9条2項の次の条文です-「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。

 まず第一に重要なことは、この条文が近代民主主義憲法というものの根本道理を完全に破壊している、ということです。近代民主主義憲法は、その国が独立国家であるということを大前提としています。そして、自国の独立を保持するためには必ず一定の「力」が不可欠であるという事実がある。

 近代国際社会もまたそれを前提としており、日本国憲法前文に語られている「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務」という言葉も、この大原則を指しています。

 ところが第9条2項の条文は、その最も基本的な「自国の主権を維持」するということを不可能にしてしまう。戦力不保持、交戦権の否認というこの規定は、具体的には、わが国は自国の自主独立を守るためのいかなる兵力も持ち得ず、またもし持ったとしても、それを使えない、という規定です。言い換えれば、この条文は、わが国の主権の維持を完全に放棄している条項なのです。


≪9条に謳われる矛盾を改めよ≫

 日本国憲法といえば「国民主権」の憲法だと、誰もが教えられてきました。しかしその「主権」(原義は「最高の力」という意味です)は「力」なしには保持されえない。つまり、現行憲法は一方で国内の「国民主権」を謳(うた)いながら、それを外に対して守り保つことを一切、放棄しているのです。

 さらにこれは、第9条1項に謳う「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」ということもまた不可能にしてしまいます。現実に国連平和維持活動に参加した自衛隊員たちがいかに苦労したかを見れば、第9条1項と2項の矛盾は明らかです。

 「改憲の道理」は何かと言えば、このような矛盾を改め、日本国憲法のうちに「一貫した道理」を取り戻すこと以外ではあり得ません。そのためにもぜひ立憲民主党には頑張ってほしいものです。

一日一言「旅の心得」

十月十二日 旅の心得


 元禄二年(西暦一六八八年)の今日、芭蕉江戸前期の俳人)が亡くなった。彼の諸国をめぐり歩くときの心がまえとして、次のようなものがある。


 他の短を挙げて己が長をあらはす事勿れ
   人を誇りて己に誇るは甚だいやしき事なり


 主(あるじ)あるものは一枝一草といへども取るべからず
   山川江沢にも主あり、つとめよや


 山川旧跡したしみたづね入るべし
   新に私の名をつける事勿れ

── 新渡戸稲造(『一日一言』)


旅に病(や)んで 夢は枯野を かけ廻る

── 松尾芭蕉

[旅日記]
『2005年08月02日(Tue) 「旅に出ます」』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20050802
『2006年11月15日(Wed) 留守よろしく(1日目)』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20061115
『2015年09月06日(Sun) いで試みむ、はだか道中』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20150906

孤独は、人のふるさとだ。

「『孤独』を感じることは何もおかしくない。みんなそうだから。」(TABI LABO)
 → http://tabi-labo.com/284277/lonliness-odd

十人十色。みんな個性的で、みんな違うからこそ良いとされています。
でも、それは時に、私たちに孤独感を与えてしまっているのでは、と「The School of Life」の動画で学びました。


一人で抱え込みがち
人はみな、自分のことはよく知っているけれど、他人のことはあまり知らない。周りからどう見られたいか、思われたいかによって、公表する中身を選んでいるからです。ある意味、編集されたデータと言っても過言ではありません。
そのため、私たちは常に、自身の悩みや希望、欲望や思い出などを自分の中だけに閉じ込めてしまいます。そして激しく寂しくなったり、傷つきやすくなることも。

同じような苦悩を抱えているのではないだろうかと他の人を知ろうとしても、彼らが相手に公表する内容は、選ばれたもの。でもその選ばれた側面でも、その人のことを知るためのヒントになるはずなのです。

他人より「劣っている」「恥ずかしい人間だ」「変だ」などの感情は心理的非対称(psychological asymmetry)と言います。私たちが日々感じる、不安や怒り、嫉妬、欲情や苦悩を打ち明けてしまえば、周りに気持ちわるがられるのではないか、と思ってしまうのです。そこでさらに自分の殻に閉じこもってしまい、内気となり孤独になってしまうのです。

自分の悩みを理解してくれないだろう、と閉じこもってしまうと、周りをさらに怖がるようになってしまいます。その苦悩を隠そうとし、つまらない陳腐な人間として装ってしまい、本来の姿を見せている人をバカにしてしまうのです。
でもこの、心理的非対称から抜け出す方法があります。それは、芸術と愛です。


どうしても抜け出せなかったら芸術と愛で
芸術を鑑賞すると、他人の中身を垣間見るようなことになります。その人の中身が見えたことで、同じような苦悩や希望を抱えているのだと、共感できるようになるのです。

愛は、自分の本来の姿を相手に表せる安心感をもたらします。それは、お互いの本性を見せ合える、本物の安心と信頼の絆となるのです。

この心理的非対称を乗り越えるためには、他の人たちを常に信頼することです。特に、自分と似ているんだという視点がないのであれば。

実は、周りの人たちの方が自分より恥ずかしがりで、怖がりで、悩んでいて、不完全なんじゃないかと考えてみてください。世間に見せる顔とは違う側面があるのではないかと考えてみるのです。そうすると、私たちは意外と似ているところが多くあることに気づくのではないでしょうか。

 人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。

── 坂口安吾『恋愛論』

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

中村元

この変転 常ない世の中では

まず自分に頼るべきである

自分に頼るということはどういうことであるか

自分はこの場合にどうすべきかということを

その場合その場合に考えることでしょう

その場合 何を判断決定の基準にするのか

それは「人間としての道」「法(のり)」

インドの言葉で言うと「ダルマ」と呼ばれるものです

これを「法(ほう)」と訳しますが

この人間の理法というもの これに頼ること

「自己に頼れ 法に頼れ」これが 釈尊の最後の教えでありました

── 中村 元(『NHK映像ファイル あの人に会いたい』)より


平成11年10月10日 中村元 没


中村元』 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%85%83
『公益財団法人 中村元東方研究所 』 http://www.toho.or.jp/
『2005年11月05日(Sat) 「中村元」の世界』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20051105


ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

バウッダ―仏教 (小学館ライブラリー (80))

バウッダ―仏教 (小学館ライブラリー (80))

中村元の仏教入門

中村元の仏教入門

「体育の日」

「【主張】体育の日 本来の意義忘れぬために」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/171008/clm1710080002-n1.html

 本来の意義を忘れてはならない日がある。「体育の日」は、その一つであるはずだ。

 昭和39(1964)年の10月10日、東京五輪は開幕した。紺碧(こんぺき)の空に無数のハトが飛び立ち、自衛隊機が5つの輪を描く中、敗戦からの復興を果たした象徴としてアジア初の聖火が国立競技場にともった。

 この日を記念し、2年後の41年に制定されたのが「体育の日」である。平成12年のハッピーマンデー制度で10月の第2月曜日に移された。今年は9日だ。

 しかし本来は、国民が焦土の中から立ち上がり、名実ともに国際社会への復帰をかなえた特別な日だ。その意義を取り戻し、国民一人一人の胸に刻むためにも、10月10日に固定すべきである。

 国会では「スポーツの日」に改称する動きもある。鈴木大地スポーツ庁長官がスニーカーを履いての出勤運動を呼びかけるなど、健康志向が社会全体に広まりを見せていることは歓迎したい。生涯スポーツの概念が国民に浸透しつつあることを思えば、改称も時代の流れではあるのだろう。

 2度目の東京五輪が開かれる2020年は、特例として開幕日の7月24日に体育の日を移し、祝日とする案も議論されている。交通混雑の緩和につながるなどやむを得ない面はあるが、「記念日」を軽く扱い過ぎてはいないか。

 近年は、学校の運動会なども秋開催ではなく、春開催が主流となっている。スポーツと秋の結びつきが、半世紀前に東京にともった聖火の記憶とともに薄れていくのでは寂しい。

 東京が20年五輪招致を勝ち取った4年前、ブエノスアイレス国際オリンピック委員会(IOC)総会で安倍晋三首相は「東京を選ぶことはオリンピック運動の一つの新しい、力強い推進力を選ぶことを意味する」と確約した。

 10日に公示を迎える衆院選はどうか。課題山積みの大会準備について、安倍首相からも開催都市の首長である小池百合子都知事からも前向きな言葉が聞かれない。東京五輪は忘れられたかのようである。もっともっと、五輪について語ってほしい。

 日本が「安全、安心、確実」を世界に約束し、国を挙げて招致した五輪を成功に導く。その決意を国民全体で再確認する「体育の日」としたい。


賢人に曰く、

 戦後の「祝日」と称するものは殆どすべて「休日」に過ぎない。それだけの事なら、そんなものは全廃して毎週土日連休にした方が働くにも遊ぶにも遙かに効率が良い。
 祝祭日が休日と違ふのは、それに儀式や行事が伴ひ、それを通して国民、或は集団が連帯感を確認する事にある。

── 福田恆存『日本への遺言』

日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)

日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)

人生は短いのではない。自分で短くしているのだ

「人生は短いのではない。自分で短くしているのだ」(ライフハッカー
 → https://www.lifehacker.jp/2017/10/171005_mid-week-meditations.html

米Lifehackerが人生の役に立つ言葉を紹介するシリーズ「Mid-Week Meditations」へようこそ。ストイックな知恵を探求し、それを使って自らを省みて、人生を好転させましょう。

今回は、古代ローマの哲学者セネカの知恵を。現在ではInternet Archiveでも読むことができる、2000年前に彼が説いた「On the Shortness of Life(人生の時間の過ごし方)」は現代でも真実をついています。

私たちは短い人生を授かっているわけではない。人生の多くを浪費しているだけだ。人生は十分に長く、正しく時間を投資すれば高みを極めるのに十分なだけの長さがある。しかし、無分別な贅沢や良からぬ行ないにふけると、死の床について初めて、いつの間にか人生が過ぎてしまったことにやっと気づかされることになる。すなわち、私たちに与えられた人生は短いわけではなく、自分で短くしているだけなのだ。足りないのではなくて、浪費しているだけだ。人生は、その正しい使い道を知ると長いものになる。

― Seneca, On the Shortness of Life


この言葉が意味するもの

この言葉がいわんとしていることは、単純明快です。セネカいわく、人生には目標を達成するに十分なだけの時間があるにも関わらず、私たちは意味のないこと(マルクス・アウレリウスはこれを「外的なこと」あるいは「気晴らし」と呼んでいます)に時間を浪費しています。

そして、死の床について初めて、どれほど多くの時間を浪費したか気づくことになります。そのときになってやっと、人生は短いのではなく、短く感じるように自分がしてしまったことに気づくのです。


そこから得られるもの

誰もが、充実した人生を望んでいます。何でもやってみたい、何でも見たい、自分が生きた証を世の中に残したいと思っています。しかし、それには、「無分別な贅沢」や「良からぬ行ない」は慎まなければならないとセネカは言います。集中力を発揮して、油断なく、規律ある生活をすれば、人生はもっと長く充実したものに感じられるとセネカは説いています。

だからと言って、楽しいことは一切ダメというわけではありません。生産的な仕事ばかりしていると、必ず燃え尽きてしまい頭がおかしくなります。そういうことではなくて、人生の残された時間の見方を変える必要があるという意味です。

時間を限りある資源としてとらえ、どうやっても増やすことはできないのだと気づくべきです。ですから、注意深く自分の行動を選択しましょう。時間は「浪費」するのでなく、「使う」のです。時には、楽しいことに時間を使ってもいいですが、決して時間を無駄にしてはいけません。時間を賢く使って、やるべきことは全てできたと言える人生にしましょう。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)

マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)

「トンデモ説」に殺されないために...

「『トンデモ説』に殺されないために全員が身につけるべき『武器』 医学のメリットを十分に享受するには」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53067

正しく、納得いく判断ができるか

ひとは誰も健康でありたい、長生きしたいと思う。しかし、病気を完全に避けて生きていくことなど不可能だ。いざ病気になった時、医師を訪れて説明をうける。いまやインフォームドコンセントの時代である。治療法についての選択を迫られる。

はたして、きちんと病気のことを理解して正しい判断ができるだろうか。

そんなたいそうなことではなくとも、日頃から、健康に関連してのテレビ番組や雑誌記事、本などはよく目にする。優れたものもたくさんあるが、残念ながらクビをかしげたくなるようなものも結構ある。

どう考えても効きそうにない高価なサプリメントを買う人や、がんもどき理論のような「トンデモ説」を受け入れてしまう人がおられるのは、気の毒なことだ。

医学部で病理学――病気の原因や発生機序――について教えている。大学を卒業して40年近くになるが、その間の医学の進歩には本当には目を見張るものがあった。多くの疾患について、その発症メカニズムが分子レベルでわかるようになり、それに基づいて様々な治療法が開発されてきた。

まことにもって喜ばしいことだ。反面、そのぶん複雑になり、一般の人にはわかりにくくなってきているのも事実である。

医業を営んでいるわけではないペーパードクターなのだが、病気について相談を受けることがよくある。そんなとき、どうしてこんなに基本的な知識がないのだろう、どこから説明したらわかってもらえるのだろう、と思うことが多い。

しかし、考えてみればあたりまえかもしれない。世の中の大多数の人たちは、医学についての教育など受けていないのだ。生物学の知識にしたって、せいぜい高校で学んだレベルまで。それも、病気に関連したような内容などはほとんどない。

いざという時に、いかに正しく、納得いくように判断できるようになるか、そして、あやしげな健康情報に惑わされないためにはどうするか。

それには、結局のところ、正しく医学知識を理解し、それに基づいて判断する、医学リテラシーとでもいうべきものを身につけておくしかないのである。

言うのはたやすいが、実際にどうすればいいのか。医学系の大学や専門学校へ行けばいいのは間違いないが、そんな時間のある人はほとんどいないだろう。となると書籍で学ぶしかない。では、それに適した本があるかというと、あまり見当たらない。


医学用語を正しくイメージする

一般向けの病理学についての本を書きませんかとのお誘いをうけたのは、もう6年も前のこと。専門書しか書いたことがなかったので、はたしてできるかどうかわからないが、えいやっとお引き受けした。

ちょっとえらそうだが、ひとりでも多くの人に医学リテラシーを身につけてもらいたいというのが壮大な目的だ。しかし、書き始めていきなりわかったことは、難しい、ということであった。

当然のことながら、医学の世界では日常的に専門用語が使われている。そこで使われている言葉がわからないと、なかなか内容の説明が困難なのだ。一般の人がそういった用語を理解しておられるかというと、答えはノーだ。

それでも、そこをなんとかしなければ、それこそお話にならない。なので、執筆にあたって、まずは必要な医学用語を丁寧に説明することにした。

ある言葉、たとえば、がんでもいいし梗塞でもいい、について、きちんと理解し、正しいイメージを頭に思い浮かべることができる、それが医学リテラシーを身につける第一歩に違いないと考えたのだ。

専門用語を理解するなんて難しそうと思われるかもしれないが、決してそのようなことはない。ただ、とっつきが悪いのは間違いない。医学生たちも、病理学は難しいという。それは、なにも概念的な難しさではなく、初めて見る病気関連用語がたくさん出てくるから難しいような気がするだけなのだ。そこのところを混同してはならない。

確かに最初は聞き慣れない言葉ばかりだろう。しかし、医学で使われる論理などというものは、まったくもってたいしたことのないものばかりであって、気の利いた子どもなら小学校高学年くらいで十分に理解できる。その程度の理屈の上にある用語なのだから、筋道立てて説明を聞きさえすれば、必ずわかる。

たとえば、「血栓塞栓による虚血が脳梗塞を引き起こす」という文章は、なんともえらそうだ。

しかし、ひらたくいうと、「血の塊(=血栓)がどこからか流れてきて血管につまって(=塞栓)、脳に血液が十分にいかなくなって(=虚血)、脳の細胞がたくさん死んだ(=梗塞)状態になった」ということである。

このように、かっこ内に記した用語の意味さえわかっていたら、どうということはないのである。


代替医療と標準治療の決定的な違い

医学リテラシーを身につけるために、なにより重要なのは、まず、病気のことなんか難しくてわかりそうにない、などと思わないこと。いいかえれば、わかるはずだ、という気持ちになることだ。のんでかかったような気持ちで理解していくこと、まずはそれが肝要なのである。

という気持ちで書き上げたのが、『こわいもの知らずの病理学講義』(晶文社)だ。これまでにないタイプの本だと自負はしていたが、それだけに、受け入れてもらえるかどうか不安があった。

が、自分で言うのもなんだが、発売すぐから驚くほどのスピードで売れている。もしかしたら、こういう本を待っている人がけっこうおられたのかもしれない。

400ページ弱の本なのですべての病気について書けた訳ではない。しかし、中でも特に力をいれて書いたのは、いまや日本における死因の1位、国民の半分が一生のうちに一度は罹るという「がん」についてである。

100ページにも満たない、がんについての基礎的な話の部分を読んでもらえたら、がんというのは、どういう病気なのか、が、おおよそわかってもらえるはずだ。

がんは、その発症に関係する遺伝子に変異が生じたたった1個の細胞にはじまる。その細胞に変異が次第に蓄積されることにより、文字通り「進化」し、無限の増殖力を獲得して、がんを発症する。

最終的には数個の変異が必要なのだが、現在では、それぞれの変異がもたらす悪い作用を抑える特異的な効果を持つ、副作用の少ない分子標的療法も開発されている。

ちょっとしたプリンシプルを理解しただけで、「がんもどき」などという考えが、がん研究における膨大な成果からいかに逸脱したものであるか、また、がんが食事やサプリメントだけでなくなることなどありえない、といったことがわかる。そして、現在おこなわれている、標準的ながん治療のバックグラウンドも理解できる。

最近、米国エール大学のチームが、がんの治療において、代替医療の死亡リスクが標準治療の2.5倍になるとの論文を発表した。ニュースでも報道されていたが、さもありなんというところだ。

代替医療に全く効果がないとは言わない。しかし、代替医療と標準治療の決定的な違いは、医学的な検証に耐えうるエビデンスの有無である。

代替医療では統計的に有意な差があるような研究がおこなわれていないことが多いので、どのような患者に効果があるのか、どのような率で効果があるのか、あるいは副作用がどの程度でるか、の客観的指標がよくわからない。

個人の選択といえばそれまでだが、きちんとしたデータのない治療に命を預けたりするのはあまりに危険だろう。

標準治療といえども100%の効果を約束するものではない。過去の研究および使用実績から、こういった状況であれば、何パーセントの率で、どれくらいの治療効果がある、ということが示されるだけだ。

もちろん、あくまでも統計値であるから、予想以上に効果があるケースもあれば、逆のケースもある。そして、悩ましいことに、自分がどのケースにあてはまるかは、やってみないとわからない。

こう考えてみると、インフォームドコンセントに基づいて判断するには、確率的な考えも重要だ。

これは相当に個人差が大きくて、効果のある率が低くてもつっこんでいきたい人もいれば、高くても副作用があるのはいやだという人もいるだろう。どちらが正しいというものではない。

結局のところ、しっかりした医学リテラシーを持った上で、自分の性格を見極めて決断するしかない。


病気になる前に…

病気になってからでも遅くはないが、できればその前から、医学リテラシーを身につけておくことが望ましい。さして難しいことではない。

まずは、病気に関するキーワードを、それに関係するいくつかのプリンシプルといっしょに頭にいれておけばいい。そうしておけば、ニュースなどでその用語を聞くたびに、自然とイメージが深まっていく。専門用語とはいえ、言葉というのはそういうものだ。

そうなれば、自然と批判的な態度が身について、怪しげな話には騙されなくなるだろう。そして、最後は自分自身を守ることになる。

それだけではない。あやしげな治療法に惑わされそうな知人がいたら、きちんとした言葉で話すことによって思いとどまらせることだってできるはずだ。

まともな治療法が少なかった時代は過去になった。医学は進歩し、我々が生きていく上において重要な科目になったということのだ。

本来ならば、中等教育あたりで病気についての基本的なコンセプトを教えるべきではないかと常々考えている。そうすれば、長期的には医療費の削減にもつながっていくだろう。

しかし、そんなものを待っていてはいつになるかわからない。まずは、自分自身で医学リテラシーを上げること。進歩した医学のメリットを十分に享受するにはそれしかないのである。

こわいもの知らずの病理学講義

こわいもの知らずの病理学講義