NAKAMOTO PERSONAL

空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。

寅彦先生

今日は歯医者さんの日。


「歯」

 話は変わるが、歯は「よわい」と読んで年齢を意味する。アラビア語でも sinn というのは歯を意味しまた年齢をも意味する。「シ」と「シン」と音の似ているのも妙である。とにかく歯は各個人にとってはそれぞれ年齢をはかる一つの尺度にはなるが、この尺度は同じく年を計る他の尺度と恐ろしくちぐはぐである。自分の知っている老人で七十余歳になってもほとんど完全に自分の歯を保有している人があるかと思うと四十歳で思い切りよく口腔の中を丸裸にしている人もある。頭を使う人は歯が悪くなると言って弁解するのは後者であり、意志の強さが歯に現われるというのは前者である。
 同じ歯の字が動詞になると「天下恥与之歯(てんかこれとともによわいするをはず)」におけるがごとく「肩をならべて仲間になる」という意味になる。歯がずらりと並んでいるようにならぶという譬喩(ひゆ)かと思われる。並んだ歯の一本がむしばみ腐蝕しはじめるとだんだんに隣の歯へ腐蝕が伝播して行くのを恐れるのであろう。しかし天下の歯がみんなむし歯になったらこんな言葉はもういらなくなる勘定であろう。
 歯の役目は食物を咀嚼し、敵にかみつき、パイプをくわえ、ラッパの口金をくちびるに押しつけるときの下敷きになる等のほかにもっともっと重大な仕事に関係している。それはわれわれの言語を組み立てている因子の中でも最も重要な子音のあるものの発音に必須な器械の一つとして役立つからである。これがないとあらゆる歯音(デンタル)が消滅して言語の成分はそれだけ貧弱になってしまうであろう。このように物を食うための器械としての歯や舌が同時に言語の器械として二重の役目をつとめているのは造化の妙用と言うか天然の経済というか考えてみると不思議なことである。動物の中でもたとえばこおろぎや蝉などでは発声器は栄養器官の入り口とは全然独立して別の体部に取り付けられてあるのである。だから人間でも脇腹か臍のへんに特別な発声器があってもいけない理由はないのであるが、実際はそんなむだをしないで酸素の取り入れ口、炭酸の吐き出し口としての気管の戸口へ簧(した)を取り付け、それを食道と並べて口腔に導き、そうして舌や歯に二役(ふたやく)掛け持ちをさせているのである。そうして口の上に陣取って食物の検査役をつとめる鼻までも徴発して言語係を兼務させいわゆる鼻音(ネーザル)の役を受け持たせているのである。造化の設計の巧妙さはこんなところにも歴然とうかがわれておもしろい。
 こおろぎやおけらのような虫の食道には横道に嗉嚢(そのう)のようなものが付属しているが、食道直下には「咀嚼胃(カウマーゲン)」と名づける袋があってその内側にキチン質でできた歯のようなものが数列縦に並んでいる。この「歯」で食物をつッつきまぜ返して消化液をほどよく混淆(こんこう)させるのだそうである。ここにも造化の妙機がある。またある虫ではこれに似たもので濾過器の役目をすることもあるらしい。
 もしかわれわれ人間の胃の中にもこんな歯があってくれたら、消化不良になる心配が減るかとも思われるが、造化はそんなぜいたくを許してくれない。そんな無稽(むけい)な夢を描かなくても、科学とその応用がもっと進歩すれば、生きた歯を保存することも今より容易になり、また義歯でも今のような不完全でやっかいなものでなくてもっと本物に近い役目をつとめるようなものができるかもしれない。しかし一つちょっと困ったことには若くて有為な科学者はたぶん入れ歯の改良などには痛切な興味を感じにくいであろうし、そのような興味を感じるような年配になると肝心の研究能力が衰退しているということになりそうである。
 年をとったら歯が抜けて堅いものが食えなくなるので、それでちょうどよいように消化器のほうも年を取っているのかもしれない。そう考えるとあまり完全な義歯を造るのも考えものであるかもしれない。そうだとすると、がたがたの穴のあいた入れ歯で事を足しておくのも、かえって造化の妙用に逆らわないゆえんであるかもしれないのである。下手な片手落ちの若返り法などを試みて造化に反抗するとどこかに思わぬ無理ができて、ぽきりと生命の屋台骨が折れるようなことがありはしないか。どうもそんな気がするのである。

── 寺田寅彦『寺田寅彦随筆集』


「天災は忘れた頃にやって来る」寺田寅彦
物理学者にして随筆家、俳人
吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八は彼がモデルである。


棄てた一粒の柿の種 生えるも生えぬも 甘いも渋いも 畑の土のよしあし」。
随筆『柿の種』より。

 平和会議の結果として、ドイツでは、発動機を使った飛行機の使用製作を制限された。
 すると、ドイツ人はすぐに、発動機なしで、もちろん水素なども使わず、ただ風の弛張(しちょう)と上昇気流を利用するだけで上空を翔(か)けり歩く研究を始めた。
 最近のレコードとしては約二十分も、らくらくと空中を翔けり回った男がある。
 飛んだ距離は二里近くであった。
 詩人をいじめると詩が生まれるように、科学者をいじめると、いろいろな発明や発見が生まれるのである。

 夢の世界の可能性は、現実の世界の可能性の延長である。
 どれほどに有りうべからざる事と思われるような夢中の事象でも、よくよく考えてみると、それはただ至極平凡な可能性をほんの少しばかり変形しただけのものである。
 してみると、事によると、夢の中で可能なあらゆる事が、人間百万年の未来には、みんな現実の可能性の中にはいって来るかもしれない。
 もしそうだとすると、その百万年後の人たちの見る夢はどんなものであるか。
 それは現在のわれわれの想像を超越したものであるに相違ない。

 油画をかいてみる。
 正直に実物のとおりの各部分の色を、それらの各部分に相当する「各部分」に塗ったのでは、できあがった結果の「全体」はさっぱり実物らしくない。
 全体が実物らしく見えるように描くには、「部分」を実物とはちがうように描かなければいけないということになる。
 印象派の起こったわけが、やっと少しわかって来たような気がする。
 思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要だという場合もあるかもしれない。

 自分の欠点を相当よく知っている人はあるが、自分のほんとうの美点を知っている人はめったにいないようである。欠点は自覚することによって改善されるが、美点は自覚することによってそこなわれ亡(うしな)われるせいではないかと思われる。

── 寺田寅彦『柿の種』

 先生が亡くなられて、自分は他の多くの弟子たちと同様に、随分力を落した。そして今日のような時勢になると、切実に先生のような人を日本の国に必要としていることを感ずるのである。科学の振興には、本当に科学というものが分っている人を必要とするからである。
 北海道へ来て、一人立(ひとりだち)で仕事をさせられて見ると、私は先生の影響を如何(いか)に強く受けていたかということを感ずるのである。それと同時に、時たま仕事が順調に運んだ時などには、先生のおられないことをしみじみ淋(さみ)しいと思う。
 二、三年前、やっと懸案の雪の結晶の人工製作が出来たあとで、先生の知友の一人であった気象台のO先生に御お目にかかったことがあった。そしたらO先生が「折角人工雪が出来たのに、寺田さんがいなくて張り合いがないでしょう」と言われた。私はふっと涙が出そうになって少し恥しかった。

── 中谷宇吉郎(『寺田先生の追憶』)

寺田寅彦随筆集 セット (岩波文庫)

寺田寅彦随筆集 セット (岩波文庫)

科学らしく見えるものの危うさ

「シャリなし寿司は健康的か? 『糖質制限が日本人を救う』への疑問 科学らしく見えるものの危うさ」(現代ビジネス)
 → http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52704

ほんとうの情報はいったいどこにあるのだろう。

一昔前に比べると、情報へのアクセスは格段に楽になった。宇宙の不思議も深海の世界もネットにアクセスすれば一発である。

しかし言うまでもなく、アクセスの自由さと、正しさの度合いは比例しない。

イギリスのEU脱退、トランプ大統領の就任によって流行した言葉は、ポスト・トゥルースであった。事実よりも、個人の感情や信条が世論を形成する様を指す。

大量の情報の中で自分にとって心地よい、都合のいい情報をつなぎ合わせると、それらしいものが出来上がる。それらしいものと「ほんとう」を区別するのは思った以上に困難だ。

これは科学の世界でも同様である。昨年来のDeNAの医療サイト「WELQ」問題からも明らかなように、断片的な情報が、わかりやすく、心地よい形に継ぎあわされて拡散されると、科学的な裏付けのある情報に見えてくる。

医療の世界にもポスト・トゥルースは存在する。

私はこれまで糖質制限は人類の健康食であるという主張や、やせたいのならご飯を食べろといった主張を契機に、2回に渡り、すでに社会に定着した糖質制限という現象を分析してきた。

・ご飯はこうして「悪魔」になった〜大ブーム「糖質制限」を考える
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49908
・白米を食べるとやせる!? バブル期に誕生した真逆ダイエットとは
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50738

したがって第3回目は糖質制限における科学論文の使われ方という点に着目し、議論を展開したい。糖質制限ポスト・トゥルースはあるだろうか?


日本人への糖質制限の有効性は科学的に実証済み?

まずは下記の提言に目を通してほしい。日本人への糖質制限を強力に推奨する医師が一般向けに書いた本からの抜粋である。

2014年、私たちはエビデンスレベル1である無作為比較試験のデータを出し、日本人での糖質制限の有効性を示しました。 これによって2014年以降 は、日本でも糖質制限を批判することの根拠はなくなりました。
その上、2014年と2015年 には、エビデンスレベル2の観察研究で、 日本人では糖質摂取の少ない人のほうが糖尿病の発症が少なく、 死亡率が低いというデータが揃ってきています。従って、 現時点で日本人に対する糖質制限は、 エビデンスレベル1およびエビデンスレベル2で支持されているわけです。
これを批判することは科学的根拠を無視した医療、 すなわち非科学医療につながることでしょう。

エビデンス」とは科学的根拠のこと、一方「エビデンスレベル」とは根拠の度合いであり、1がもっとも信頼度が高いとされる。

つまり著者である医師は、もっとも信頼度の高い研究法において糖質制限の効果が確認され、さらにその次に信頼度の高い研究2つにおいても同様の結果がでたのだから、日本人に対する糖質制限の有効性を批判することは非科学的と言っているのである。

これを読んであなたはどう考えるだろう。日本人に対する糖質制限の有効性を批判するのは、科学のイロハを知らない素人という印象を持っただろうか。

結論から言おう。

いっけんきわめて冷静で論理的に見える氏の主張は、科学的とは言い難い。なぜならこの主張には科学論文の過剰な一般化が見られ、それをした結果、主張自体が非科学的になってしまっているからだ。

その行き過ぎた一般化が具体的にどのようであるかを示すため、ここでは、氏が同著のあとがきで再び強調する、【1エビデンスレベル1の研究での、日本人への糖質制限の有効性の確認】、および【2糖質摂取の少ない群での日本人の死亡率の低さの確認】について、その主張の根拠とされる論文に遡ってみたい。


言えることは糖尿病患者への6ヵ月の有効性のみ

まず、糖質制限の有効性が日本人に対して確認されたという主張?であるが、根拠となった研究に参加した被験者は24名の糖尿病患者であり、研究の期間は6ヵ月である。

つまりこの研究から示唆されたことは、糖尿病患者に対する糖質制限食の6ヵ月間の有効性であり、日本人全般への有効性ではない。しかし著書の副題に「日本人を救う革命的食事法」とあることからわかるように、氏は、糖尿病の患者に対して行われた研究の結果をあたかも日本人全体のことであるかのように拡大してしまっている2。

たこの研究一つで、すべての批判をシャットアウトできるかのような主張がなされていることも問題である。

いくらエビデンスレベルが高いと言っても、一つの研究からそれほど大きなことが言えるわけではない。どれだけ慎重にデザインされた研究であっても、その結果が偶然得られた可能性はぬぐいきれないからだ。

だからこそ現在の疫学統計では、その可能性を最大限小さくするためメタアナリシスという方法がとられる。これは類似した方法で行われた研究を複数集め、それらの結果を再統合して、どのようなことがいえるかを検証するやり方だ。

当然のことながら糖尿病でない日本人を対象にした糖質制限のメタアナリシスは行われていない。したがって研究一つで、糖尿病患者のみならず、日本人全体への有効性が証明されたと言い切ってしまう氏の解説は、いささか度が過ぎているといえるだろう。

実際の本文は「この状況を受けて」から始まっている。「この状況」とは、アメリカ糖尿病学会の食事療法のガイドラインが変わり、糖質制限が糖尿病治療の第1選択肢の1つであるとされたにもかかわらず、日本ではそれが受け入れられなかった状況を指す。つまり初めは糖尿病に限った話がなされていたのだが、その部分はぼやかされ、さらにその話が、日本人に対しての観察研究の結果と結び付けられることにより、糖質制限の日本人全体への有効性が科学的に判明したかのようなレトリックができあがっている。

一般人がおそらく最も気になる減量効果についてであるが、この研究においては糖質制限の方が、対照群であるカロリー制限より勝っていたという結果は得られていない。

メタアナリシスが行われたからといって、その結果がすぐに信用できるとも限らない。統合の際に選ばれた論文の質が低ければ、メタアナリシスの結果の信頼性も落ちてしまう。

もちろんメタアナリシスが行われず、一本の無作為比較試験が、ガイドラインにまで影響を及ぼすこともある。しかしそのような研究は参加国44ヵ国、参加施設数951、被験者2万人弱というよう超大規模な研究であり(例:Hart, 2013)[3]、参加者も参加施設も多様であるため、一般化できる可能性が大きい。対して氏が掲げる研究は単一施設で行われたものであり、一般化できる範囲はその分小さく、その一般化可能性は前者の研究と比較にならないことは言うまでもない。


「糖質摂取が少ないと死亡率も少ない」とも言い切れない

「糖質摂取が少ないと死亡率が低い」という主張?の根拠となった論文にも同様のことが言える。

まずひとつに、死亡率が低いという結果は女性に限ってみられたものであり、男性にはみられていない。しかし氏は、この結果を日本人全体への有効性の確認という形で拡大してしまっている。

さらに「女性で糖質摂取が少ないと死亡率が低い」という主張すら、この論文からはしにくいことも注意したい。

その理由は、死亡率が高いとされた女性グループの平均年齢が、1980年の調査開始時点で57.2歳であることだ。仮にこれを1人の女性であるとすると、彼女は、大正12年生まれ、青春時代は第2次世界大戦を経験し、終戦の少し前に二十歳を迎えた計算となる。

第2次世界大戦後の日本の食事情は、戦前とは激変している。この時代を生き抜いた女性の健康状態を、全く異なるライフスタイルを持つ現代の女性にそのまま適応し、「糖質をたくさん取ると死亡率が上がりますよ」と注意喚起するのは少々無理があるといえるだろう。

さらに「たくさん糖質を摂ると死亡率が上がる」と言われれば、大胆な糖質カットが必要な気がしてしまう。しかしこの研究から導かれているのは、そこまで極端な話ではそもそもない。

元のデータを見ると、死亡率が低いとされたグループは、1日の摂取カロリーのおよそ5割を糖質から摂取している。それに対し、現代女性の1日の糖質摂取量は総カロリーの約6割だ。

つまり平均的な糖質摂取をしている女性は、いま食べている量からほんの少しだけ糖質をカットすれば、この値を達成できるし、そもそもこの研究からは、糖質摂取が6割前後だと死亡率が高いという結果は得られていない。

したがって先に指摘した時代の影響などを無視して言明するのであれば、平均的な糖質摂取をしている女性は何もする必要はない、というのがこの研究から言えることだ。

加えて、この論文において死亡率が高いとされたグループは1日の7割以上のカロリーを糖質から摂っていることも注意したい。これだけの糖質を1日にとるためには、ざっと見積もってもご飯茶碗5杯以上5が必要だ。

これだけの糖質を日々摂取している女性がいまどれだけいるかがそもそも疑問であるが、この研究に従えば「あまり運動もせず1日ご飯茶碗5杯以上を食べる女性は少しご飯を減らしましょう」という提言のほうが適切と言えるだろう。

つまりこの研究は、1日の食事からほぼすべての糖質をカットしたり、一回の糖質摂取量を20グラムから40グラムに抑えたりといった、糖質制限派の医師が推奨する食事法の有効性を裏付けているわけではない。

論文が、大胆な糖質制限の有効性を主張する一般書に埋め込まれたことで、主張そのものに科学的裏付けがあるように見えていることがわかる。

1日の必要カロリーを1800kcalとし、ご飯茶碗1杯を140グラム=235kcalとして計算した

ご飯を食べると身体がけがれる?

ご飯を食べると身体がけがれた気がする
血糖値が上がるのが怖い
糖質を食べると許せない

これらはいずれも体型を気にする10代、20代の女性から発せられた言葉である。彼女たちの体型が肥満と縁遠いことは言うまでもない。

同じように、ネットでは寿司屋でシャリを残す女子の存在が物議を醸しだす。そこで紹介されるコメントは、「シャリを残すいちばん重要な理由が、体調管理です。シャリはお米ですから糖質がたっぷりと含まれているんです」、である。

そして先日、シャリなしの寿司を販売する回転寿司屋が登場した。もちろん病気でシャリを自由に食べられない人たちが、このメニューにより足を運べるならば素晴らしいことだろう。

しかしメニューの開発意図はそこにはない。記事によると女性を中心として健康意識の高い層に、糖質を気にせず食べてほしいメニューであるという。

日本は先進国では珍しく、若い女性のやせすぎが問題になる国である。体型を気にするやせ気味の女性が、「糖質は太る」、「糖質は身体に悪い」というメッセージを日々浴び続け、その結果、糖質に対して過度な恐怖感を抱くことの弊害はないのだろうか。

もともと糖尿病の治療に端を発した糖質制限は、このような形で、そことは遠く離れた人々にまで明らかな影響を及ぼしている。

ひるがえって、糖質制限派の主張は、とどまるどころかますます大胆になっている。日本人が糖質制限をすれば何千億もの医療費の削減になるであろうとか、低糖質のコメを開発すべきだとかいった主張までがなされるようになり、糖質制限に疑義を投げかける人々に対しては、科学を知らない、勉強不足と、容赦ない批判の言葉が投げかけられる。

しかし食は、人間の生き方や価値観、さらには環境との共生の在り方までが映し出される複合的なものである。人間の食のあり方を科学の言葉に還元し、そこからのみ絶対善を語ることは、そもそも人間の食の本質をないがしろにしているとは言えまいか。

現時点において、「人類の健康食」、「日本人を救う」というようなセンセーショナルな言明は、科学的事実の範疇を超えた、糖質制限ポスト・トゥルースということができるだろう。

「デブと病気に続く道」であるかのように語られる糖質摂取であるが、科学論文の過剰な一般化によって、その物語が作られている場合があることを覚えておきたい。

なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学

なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学

civility・礼節の欠如

「【正論】『加計』批判にみる危うさ 『証拠主義』無視など『礼節の欠如』が日本にも生じている 東洋大学教授・竹中平蔵」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170921/clm1709210004-n1.html

≪深刻になった「礼節の欠如」≫

 アメリカのコミュニケーション会社ウェーバー・シャンドウィック社などが、面白い調査を行っている。キーワードはシビリティ(civility)、すなわち「節度、礼節」である。

 昨年の調査結果によると、アメリカ人の95%は civility に問題があると認識しており、74%がここ数年で civility が低下したことを指摘している。そして政策に関する問題で、全体の76%の人々が、 incivility(礼節の欠如)が有効な政策論議を妨害していると認識している。

 言うまでもなくこれは、トランプ政権の誕生と結びついている。トランプ流のツイッターでの一方的で扇動的な発言には、エビデンス(証拠)に基づき政策を真摯(しんし)に議論する姿勢が欠如している。

 また、相手の主張に耳を貸しつつ建設的な議論をするという基本的なマナー(礼節)が見られない。しかしこうした姿勢が、今の社会に不満を抱えている人々の共感を呼び、現体制に心情的に反発する社会的な流れを生み出した。

 考えてみれば、日本にも同様の傾向が存在する。その典型が、獣医学部新設をめぐる、一部野党やメディアの偏向した議論・報道だ。政策問題を論じる際に必要な“そもそも論”とは、獣医学部の新設を52年間も認めてこなかったこれまでの政策は正しいのか、なぜこのような現実が生まれたのか、どう是正すべきか、という問題を正面から論じることだ。

 しかし、こうした議論はほとんどなされないまま、決定のプロセスに首相官邸の圧力があったのではないか、というポイントばかりに焦点が当てられた。


≪強調されるスキャンダル的視点≫

 政策を決定するプロセスはもちろん重要だ。しかし、政策の“そもそも論”がないままスキャンダル的な視点のみが強調され、成熟した市民社会の常識(civility)を著しく欠くものとなった。

 欠如の最大のものは、「証拠主義」の無視だ。ある主体を批判し責任を求める場合、きちんとした証拠に基づくことが求められる。司法の場では証拠裁判主義、とも呼ばれる。

 しかし今回の批判の出発点となったのは、真偽のほどが明らかではない文部科学省内部のメモだった。これを政府側は「怪文書」と呼び、その後は文書が実在する(本物)かどうかで大騒ぎになった。しかしこの文書が実在するとしても、「本物の怪文書」と言わざるをえない。

 会議に参加した双方が合意した正規の議事録には証拠性があるが、一方的な利害を持つ主体が作成したメモは当然、バイアスがかかっており、証拠性に欠ける。今後は合意に基づいた議事録を作成し、それ以外は証拠性を認めないという常識的なルールを確立すべきだ。

 第2は「立証責任」の転嫁だ。責任を問う場合、その立証責任は問う側にある。何か疑わしいと責任を問われた側が、何もしていないことを自ら立証するのは不可能だ。にもかかわらず、首相や内閣府の関係者は、こうしたむちゃな答弁を強いられた。

 筆者が野党に期待するのは、元文部科学次官がこの問題に登場して政府批判を行ったとき、「あなた自身は学部新設を52年間行ってこなかったことの責任をどう感じているのか」を糺(ただ)すことだった。

 メディアに解明を期待するのは、最終的な決定に至る過程で、抵抗勢力がどのような圧力をかけたのか、という点だ。この点を無視して、一方的に内閣府などへの批判が行われた。しかも、文書が存在するのか、閣僚の発言は矛盾していないかなど論点がどんどんすり替わり、その都度、政府側が何かを隠蔽(いんぺい)しているかのような印象が与えられた。


≪政治社会への悪影響を認識せよ≫

 今回のもう一つの教訓として、告示による規制という大きな課題がある。獣医学部新設がかくも長期にわたって行われなかったのは、学部の設置そのものの規制ではなく、設置したいという申請を認めない、という規制があったからだ。異様な措置だといえる。

 しかもこれが、国会で審議される法律ではなく、告示という、いわば一片の通達によって実施されてきた。気がつけば、こうした告示による規制は、極めて多岐にわたる。そしてそれらが「岩盤規制」の重要な部分をなしている。

 しばしば話題になる混合診療の規制や遠隔教育の規制も、告示に基づいている。医学部・歯学部新設の規制も同様だ。告示という手法そのものを全面的に見直すことが必要ではないか。

 冒頭の civility 調査に参加したパウエル・テイト社のジェンキンス氏は、次のように述べている。「アメリカ国民は今や、礼節欠如の高まりが私たちの政治プロセスを傷つけ政府の機能を損ねたという、明確な認識を持っている」

 加計学園批判の最大の教訓は、 civility の欠如が政策論議を歪(ゆが)めるという現象が、日本でも生じていることだ。それが政治や社会に悪影響を及ぼすことに強い問題意識を持たねばならない。

八雲忌

 日本人ほど、おたがい同志楽しく生きていく秘訣を徹底的にこころえている国民は、よその文明人のなかにもちょっとあるまい。人間の楽しさは、当然自分の周囲の人たちのしあわせにあるのだから、それにはおのれを虚しくして、なにごとも辛抱我慢すること、この修養にまつよりほかない。この真理を、日本人ほどあまねく会得している国民は、ほかにないだろう。

── 小泉八雲(『日本瞥見記』)

明治37年(1904)9月26日、小泉八雲ラフカディオ・ハーン)没。


『八雲会 - The Hearn Society』 http://yakumokai.org/
小泉八雲記念館』 http://www.matsue-tourism.or.jp/yakumo/


日本の心 (講談社学術文庫)

日本の心 (講談社学術文庫)

怪談・奇談 (講談社学術文庫)

怪談・奇談 (講談社学術文庫)

神々の国の首都 (講談社学術文庫)

神々の国の首都 (講談社学術文庫)

悪は「陳腐」である

NHK「100分 de 名著『全体主義の起原』ハンナ・アーレント

「第4回 悪は「陳腐」である」
 → http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/69_arendt/index.html#box04

【放送時間】
2017年9月25日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2017年9月27日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2017年9月27日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【講師】
仲正昌樹金沢大学教授)
【朗読】
田中美里(俳優)
【語り】
徳田 章(元NHKアナウンサー)
何百万人単位のユダヤ人を計画的・組織的に虐殺し続けることがどうして可能だったのか? アーレントはその問いに答えを出すために、雑誌「ニューヨーカー」の特派員として「アイヒマン裁判」に赴く。アイヒマンは収容所へのユダヤ人移送計画の責任者。「悪の権化」のような存在と目された彼の姿に接し、アーレントは驚愕した。実際の彼は、与えられた命令を淡々とこなす陳腐な小役人だったのだ。自分の行いの是非について全く考慮しない徹底した「無思想性」。その事実は「誰もがアイヒマンになりうる」という可能性をアーレントにつきつける。第四回は、「エルサレムアイヒマン」というもう一つの著書も合わせて読み解き、「人間にとって悪とは何か」「悪を避けるには何が必要か」といった根源的なテーマを考える。

誰もが悪をなしうる

「この時代の“アイヒマン”はどこに潜んでいるのだろうか。駅の構内の人の行きかいが、ひどく現実感をともなわない映像のように流れていきました。」

アーレントについて真剣に読み直してみようと思い立ったのは、このように締めくくられる一通のメールマガジンを読んだことがきっかけでした。私が尊敬する編集者、河野通和さんのエッセイ。今は休刊してしまった「考える人」という雑誌の名物編集長だった人です。2014年1月23日という日付がありますから、今からおよそ3年前のこと。

映画「ハンナ・アーレント」の読後感(視聴後感?)から始まるこのエッセイ。メールマガジン掲載のエッセイは、通常一回読み切りで送られてくるのですが、アーレントを取り上げたこの回は、異例にも前後編。文章にも熱がこもっていて心を揺さぶられました。映画ももちろん感動的なものでしたが、この短いエッセイに書き記された細やかな背景を読むにつけ、アーレントは、今の時代にこそ読み直さなければならないと痛感したものです。

エッセイでは、番組でも取り上げた「エルサレムアイヒマン」がどのようにして生まれていったかを、その仕掛け人である「ニューヨーカー」編集長、ウィリアム・ショーン氏のドキュメントとインタビューで辿っています。印象的なのは、アーレントが、文字通り「命がけ」でこの著作に取り組んだことがありありと伝わってくるところ。何週間にもわたって膝詰めで、アーレントと一緒に原稿作りを続けたショーンは、一回の作業が終わると精も根も尽き果てていたと、当時交際していたリリアン・ロスは記しているそうです。

英語が苦手だったアーレントに対して、文章の明晰性、論理性などをつきつめていくショーン。最初こそ協力的だったアーレントは、ついに怒りを爆発。数々の悪罵を吐きながら、「これ以上原稿に手を入れるつもりはない」と言い放ちます。ショーンは、「あんなふうに人から罵られたのは生まれてはじめてだった」と述懐しています。作者と編集者の熾烈ともいえるせめぎあいが垣間見られるシーンです。

徹底して知的に誠実であり続けようとするアーレント。そして、その言葉を現代の人たちに少しでも伝わるよう彫琢しようと粘り続けるショーン。そんなせめぎあいがあったからこそ名著「エルサレムアイヒマン」は生まれたのでしょう。私は、その姿勢を見るにつけ、私たちが番組に取り組む態度もかくあらねばならないと決意を新たにします。

「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです」

映画の中で、学生たちを前にして、毅然とした反論を行うアーレントの言葉。もちろん脚本家の手は入っているのでしょうが、「全体主義の起原」や「エルサレムアイヒマン」でアーレントが伝えたかったメッセージの一つが凝縮しているように思われます。私たちは、「悪」をみつめるとき、「それは自分には一切関係のないことだ」「悪をなしている人間はそもそもが極悪非道な人間だ。糾弾してやろう」と思い込み、一方的につるし上げることで、実は、安心しようとしているのではないでしょうか?

アーレントがつきつけたのは「誰もがアイヒマンになりうる」という恐ろしい事実です。その事実は、私たちを不安につきおとします。だからこそ、「エルサレムアイヒマン」は、発表直後から多くの人に「ナチスを擁護している」「ユダヤ人のことを何もわかっていない」と糾弾されたのでしょう。

今回の番組を通して一番感じたことは、「全体主義」といっても、それは、外側にある脅威ではないということです。どこにでもいる平凡な大衆たちが全体主義を支えました。私たちは、複雑極まりない世界にレッテル貼りをして、敵と味方に明確に分割し、自分自身を高揚させるようなわかりやすい「世界観」に、たやすくとりこまれてしまいがちです。そして、アイヒマンのように、何の罪の意識をもつこともなく恐るべき犯罪に手をそめていく可能性を、誰もがもっています。「全体主義の芽」は、私たち一人ひとりの内側に潜んでいるのです。

どんな批判にさらされても、アーレントは、その知的な誠実さを貫きとおしました。彼女は、古くからの友人のほとんどを「エルサレムアイヒマン」出版を期に失いました。夫に「こうなるとわかっていても書いたのか?」と問われ、「ええ、記事は書いたわ。でも友達は選ぶべきだった」と答えたといいます。「考え続ける」という武器を決して手放すことがなかったアーレントの生き方、姿勢こそ、私たちが一番学ばなければならないことかもしれません。

一日一言「天を相手にせよ」

九月二十四日 天を相手にせよ


 明治十年(西暦一八七七年)の今日、西郷南州翁が城山で戦死した。西郷(隆盛)は「敬天愛人」を貫いたが、それは次の言葉から生まれた。


  道は天地自然の道にして、人は之を行ふものなり、故に天を敬するを以て目的となす。天は人も我も同一に愛す、故に我を愛する心を以て人を愛すべし。
  人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。

── 新渡戸稲造(『一日一言』)

西郷隆盛の人望が驚くほど厚かった根本理由 600人が『ついていきたい』と後追い辞職」(東洋経済
 → http://toyokeizai.net/articles/-/187631
「西郷軍と官軍…140年目の『和解』 西南戦争戦没者慰霊塔が完成」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/west/news/170923/wst1709230055-n1.html


人を相手にせず、天を相手にせよ。
天を相手にして、己を尽し、人を咎めず。

 もしわが国の歴史から、もっとも偉大な人物を二人あげるとするならば、私は、ためらわずに太閤と西郷との名をあげます。二人とも大陸方面に野望をもち、世界を活動の舞台とみていました。ともに同国人とはくらべものにならないほど偉大でしたが、二人の偉大さはまったく相反していました。太閤の偉大さは、思うにナポレオンに似ていました。太閤には、ヨーロッパの太閤に顕著なほら吹きの面が、その小型ながら、かなりあったのです。太閤の偉大さは、天才的な、生まれつきの精神によるもので、偉大をのぞまなくても偉大でありました。しかし西郷は、そうではありません。西郷の偉大さはクロムウェルに似ていて、ただピューリタニズムがないためにピューリタンといえないにすぎないと思われます。西郷には、純粋の意思力との関係が深く、道徳的な偉大さがあります。それは最高の偉大さであります。西郷は、自国を健全な道徳的基盤のうえに築こうとし、その試みは一部成功をみたのであります。

ライダイハン、韓国がベトナムでしてきたこと

20日の『産経抄』より。


「【産経抄】ライダイハン…慰安婦像を建てる韓国がベトナムでしてきたこと 9月20日」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/column/news/170920/clm1709200003-n1.html

 裸の少女が焼き殺されている。すでに殺された別の少女の手首や足首は鎖につながれていた。ベトナム各地に残る慰霊碑に描かれた壁画である。北岡俊明さんと北岡正敏さんが現地で撮影し、雑誌「正論」の平成26年7月号のグラビアで紹介していた。

 ベトナム戦争で韓国は、30万人以上の兵士を送り込んだ。2人によれば慰霊碑は、韓国軍による民間人大量虐殺の動かぬ証拠である。慰霊碑には、殺された犠牲者の名前が一人一人刻まれていた。

 「ライダイハン」の問題は、韓国軍がベトナムで犯したもう一つの罪といえる。韓国軍兵士らと現地の女性との間に生まれた子供たちを指す。性的暴力も横行していた。韓国軍の撤退により、ライダイハンは置き去りにされる。

 韓国とベトナムの間に国交が結ばれたのは、1992年である。その際ベトナムが「過去」を問題視しなかったのをいいことに、韓国政府は、軍による民間人虐殺や婦女暴行について、一切謝罪をしてこなかった。自らの「歴史問題」からは目をそらしながら、日本の慰安婦問題を言い立てる。「ダブルスタンダード」の付けが回って来たといえるだろう。

 ライダイハンの被害実態を解明し、韓国政府に謝罪を求めようと、ロンドンで民間団体が設立された。設立イベントで披露された「ライダイハン像」は、在ベトナム韓国大使館前への設置も検討されている。韓国は自国内だけでなく、海外にも慰安婦像を建てて、日本の評判をおとしめてきた。まさに「ブーメラン現象」である。

 ただ、突き放してばかりもいられない。韓国国内では、ベトナム戦争に関係のない団体までもこの問題に介入している。韓国社会の混乱にほくそえむ、北朝鮮の影が見え隠れするからだ。

「ライダイハン、韓国社会に衝撃 ベトナム派兵、徐々に汚点 対日批判」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/world/news/170919/wor1709190019-n1.html
ベトナム戦争に派兵された韓国兵士の女性暴行『韓国政府に謝罪要求』英国で団体設立、混血児問題で像制作」(産経新聞
 → http://www.sankei.com/world/news/170919/wor1709190010-n1.html

悲韓論 (一般書)

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